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【毒親育ち】ずっと分からなかった『寂しい』を、父のお陰で分かった、という話。

私はどうも「失感情症」の傾向があるらしく、『寂しい』と『悲しい』を感じた経験が殆どない。

先週父の記事を書いて、父について色々と思いだしていたから、だろうか。
数日前、何の気なしに、息子に「それじゃ、ママはお風呂に入ってくるからねー」と声をかけて、「んー」という生返事を聞いた後、脱衣所に向かう途中で、唐突に父の声を思い出した。

「どれ、じゃあ父ちゃんは寝るよ」
という、歌うような、ふざけるような、そんな明るい声を。

私が小学校の高学年以降の父は、朝起きるのも夜寝るも早くなっていて、いつも私よりやや早い、夜20時半ごろには床に入っていた。日課の晩酌を終えて布団に向かう時、私が近くに居れば、父は必ずそう声をかけてくれていた。

あの頃、父が寝るタイミングで私がリビングにいるのは、母に叱られているか、説教を受けている時だった。母の話がひと段落つくまで待ってから発せられる「父ちゃんは寝るよ」は、「今日のお説教はここまで」という宣言でもあった。
20時半が過ぎていても、母がヒートアップしている真っ最中にその言葉を聞くことはなかった。父がそこにいる間は、母の説教は何とか「普通」で、「子供に対して必要」と呼べる範囲に収まっていたが、怒りに駆られている最中の母を放って父が寝に行ってしまえば、母の怒りは何の遠慮もなく全力で私に向かっただろう。今思えば、父はそれをきちんと知っていて、私が叱られている間はその場に留まってくれていたのだと思う。
それに気付いていなかった当時の私は、母の説教の始まりが遅い日には「お父さんが寝る時間になっちゃう……」といつもハラハラしていたけれど。

一通りの発散が終わった後の母は、父が寝室に行くと、それ以上話をループさせはしなかった。父の入眠を妨げたくなかったのだろう。父がいなかった頃の母の説教の長さを考えれば、本当はそこから1、2時間はダラダラと説教が続いていたはずだが、父が試合終了を宣言してから退場することにより、私はそのまま解放されて、自分の部屋に行くことが出来ていた。

時が流れて私が成人し、結婚・出産を機に両親と同居を始めてからは、私が父の前で母に説教されるシーンは滅多になくなっていたが、父はやはり布団に向かう前には「父ちゃんは寝るよ」と言っていた。
父の病状が悪化して、晩酌をできなくなるまで、ずっと。

そんなことをつらつらと思い出していたら、あの明るい声の「父ちゃんは寝るよ」を、また聞きたくなった。
4年前に亡くなった父の声を、亡くなる1,2年前からは聞くことが出来なくなっていたあの台詞を、自分が鮮明に記憶していたことに少し驚いた。そしてもう二度と聞けないことを、『寂しい』と思った。

そう。それは間違いなく『寂しい』としか呼べない感情だった。
じんわりと胸に広がるそれは、私の人生で記憶しているごく僅かの『寂しい』のどれよりも、温かくて優しくて穏やかな、尊いような『寂しい』だった。

――ああ、なるほど。『寂しい』は、これだったか。

内臓をえぐり取るような強烈な孤独感からの『寂しい』とも違う、
世界の全てが崩れ去ったような喪失感に圧倒されての『悲しい』とも違う、
こんなにも柔らかくて繊細な『寂しい』が。『悲しい』が。私の内側にもあったのだ、と思った。

4年前に父が亡くなった時、私は大して父の死を悼まなかった。
それまでの私にとって、父は重要な人ではなかったからだ。当時の私の、母を軸とした世界感では、父は母の付属品にすぎなかった。父の終末期医療の愚痴を母が毎日言っている以上、父の介護から母が早く解放されるといい、としか私は考えていなかったし、父が亡くなった時も、例えば先週咲いていた花が散ったことに気付いた程度の、「ああ、終わったか」という感想しか持たなかった。

父が亡くなってから1年半が過ぎたところで、母が毒親だったと気付いた私は、慌てて自分の記憶の再点検と人生の振り返りを始め、「父が私にしてくれていた事があった」ことと、その意味を知った。そこでようやく父の死をいくらか惜しむことが出来るようにはなったが、それから今までの間もやはり、『寂しい』とは感じられていなかった。

でも、私にもあったのだ。父がいなくなった事への『寂しい』と『悲しい』が。
父の「父ちゃんは寝るよ」をもう一度聞きたいと、そう思っている私の感情を、私はようやく見つけた。見つけられた。

はっきりとすくい取れた『寂しい』と『悲しい』は、言葉の意味から漠然と想像していたよりずっと、自然に私の中に馴染んだ。もしかしたら、覚えていないほど昔の私は、365日ずっと、痛くて強すぎる『悲しい』『寂しい』を感じ続けていて、それ故に見失ってしまっていたのかもしれない、と思うほどに。
そして、今の私はきっと、ほとんどいつも『寂しく』も『悲しく』もなく、過ごせているのだろう。

きちんと『寂しい』と『悲しい』を見つけられた私はきっと、この先も沢山の『寂しい』や『悲しい』を見つけられると思う。それはもっと冷え冷えとして耐えがたい『寂しい』かもしれないし、打ちのめされて立ち上がれないような『悲しい』かもしれないけれど。
今の私の『寂しい』と『悲しい』の手触りを、温度を、身体感覚だけで言えば幸福にも似たこの感情を、出来るだけ正確に、緻密に覚えておきたい。
感情は時間と共に薄れるけれど、「父について思い出したとき、私の『悲しい』と『寂しい』があった」記憶を、忘れないでいられるように。

父の死で分かったことはとても多いけれど、もしかすると、記憶の父に教えてもらえることは、まだまだあるのかもしれない。
生きている内に、ありがとうと言えなかったことが悔やまれるけれど、こればかりは仕方ない。私がずっと意識を向けていなかったせいもあるけれど、多分父は、とてもとても不器用な人だったのだろう、と思う。

――「どれ、じゃあ父ちゃんは寝るよ」。

ありがとう、お父さん。おやすみなさい。

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