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物語『猫になって、わかったこと』

 人間と猫の中身が入れ替わる物語。『生きがいを実感しながら幸福に生きていくためには、どうすればいいのか』を問う物語。
 中学二年生の女の子・楢崎カスミは、「猫になれば、苦しみから解放される」と考えて、飼い猫のハナにお願いし、体を入れ替えてもらう。しかし、実際に猫になったカスミには苦しい生活が待っていた。カスミは人間に戻れるのか? 

第1章 猫と入れ替わる

 私は楢崎カスミ。中学二年生。ただし、普通の中学二年生じゃない。運命に恵まれない、可哀相な中学二年生。なぜって、目が細くって、顔ははちきれそうに丸くて、髪の毛は天然パーマ。そう、わかりやすく言えば、デブでブスのチビ。おまけに、運動オンチで、頭も悪い。
 私が住んでいる所は、福岡県北九州市の若松区。その中で最も東のはずれにある本町に私の家はあって、周りは海に囲まれている。
 私は海岸通りにあるベンチに座っていた。目の前に、洞海湾が広がっている。左手に巨大な赤い鉄橋が架かっている。若戸大橋だ。私は目の前を通り過ぎて行く船をボーッと眺めていた。なぜだかわからないけれど、涙が出て来て、止められなかった。
 今日は八月二十四日。夏休みが終わって、久しぶりに学校に登校した。予想通りに今日は最悪だった。先生も友達も最低。
 帰りの会を終えて、私は一人でさっさと下校した。しかし、学校もイヤだけど、家に帰るのもイヤだった。私は海岸通りに向かった。とにかく、一人になりたかった。
 私は思った、「学校なんか、二度と行きたくない。担任の五木のババアはうるさくて、たまらない。唯一楽しいのは、書道部の活動だけ。幼なじみの康子がいっしょだから。でも、康子も二年生になってから、感じが悪い。それに、書道部の顧問は担任の五木のババアで、時々、指導にやって来て、私だけにイチャモンをつけていく。面白くない。だけど、学校だけじゃない。家もイヤだ。父さんもイヤだけど、母さんの方がもっとイヤ。『ゲームばかりしないで、勉強しろ』ってギャアギャアと叫ぶ。早く死んでしまえばいいのに。ああ、一人暮らししたい! それができないなら、いっそ死んでしまいたい」と・・・。
 その時、背後から声がした。
「カスミちゃん!」
 女の人の甲高い声だった。突然、自分の名前を呼ばれて、体全体がビクッと震えた。そして、私は首を回して、後ろを見た。そこにいたのは、三毛猫だった。私は辺りを見回した。人間は誰もいない。
 私は思った、「空耳かな?」と・・・。
 私は「フゥ」と息を吐き出して、体を反転させてベンチに座り直した。
 しばらくして、背後から再び声が聞こえた。
「カスミちゃん! あたいを無視しないで!」
 私は急いで体を回して、後ろを見た。相変わらず、一匹の猫がチョコンと座っているだけだ。私は首を回転させて、辺りを見回したけど、人間は誰もいない。
 しかし、また、声が聞こえた。
「カスミちゃん。あたいはここだよ!」
 三毛猫が右手を上げて左右に振った。私は目を凝らして、その猫をゆっくりと見た。それは私が飼っている雌猫、ハナだった。
「ハナ? まさか、あんたが私に話しかけたんじゃないでしょうね。そんなはずないよね。だって、あんたは猫なんだから、人間の言葉をしゃべれるはずないよね」
 ハナは頭を左右に大きく振った。そして、口を開いた。
「カスミちゃん。びっくりしないでね。あたいは人間の言葉がしゃべれるのよ」
 心臓がビクンと痙攣した。口を開けて何か言おうとしたけれど、言葉が出て来ない。
 ハナが口をパクパクと動かした。
「今まで黙っていたけど、あたいは実は人間の言葉がしゃべれるの」
私は大声で叫んだ。
「嘘でしょう! 猫が人間の言葉をしゃべれるはずない!」
 ハナは自分の右手を口元に持って行って、舌を出して、ペロリと右手を舐めた。それから、私の目を見つめて、言った。
「カスミちゃん。びっくりしただろうけど、落ち着いて聞いてよ。お願いよ。あたいが人間の言葉でしゃべりかけられるのは、脳が異常に発達したからなの。だけど、人間と会話できるのは、なぜか、あなたとだけなの」
 私は両手で頭を押さえ、目をつむって、考えてみた、「私は頭がおかしくなってしまったんだろうか? 猫が日本語をしゃべっているのが聞こえるなんて、そんなこと、ありえない」と・・・。
 私は目を開いて、ハナを見た。
 ハナは目をつむり、右手で右の耳の後ろの辺りをゴシゴシとこすってから、目を開いて私を見た。
「カスミちゃん。安心して。私は化け猫でもないし、あなたに危害を加えたりもしない。『今すぐに、この状況を受け入れろ』と言われてもできないと思うけれど、何度か深呼吸して、落ち着いて、状況を冷静に受け入れてほしいわ」
 私は口をポカンと開いたまま、ハナを見つめた。
 しばらくして、私は恐る恐る、口を開いた。
「ハナ。私、あんたに話しかけてもいい?」
 ハナが顎をコクンと下げた。
「どうぞ」
「あんた。私のしゃべっていること、本当に理解できるの?」
「そうね。ほとんど理解できると思うけど」
「ハナ。私の言葉が理解できるのなら、今までどうして黙っていたの? なぜ今日になって突然、私に話しかけて来たの?」
 ハナが尻尾をピンと立てた。
「そりゃ、今は飼い主様のピンチだっていうことがわかったからよ」
「今が私のピンチ? どうしてよ?」
 ハナが左手を顔に持って来て、髭をさわった。
「あたいが何年間、あなたと暮らしてきたか、知ってる? 五年間よ。五年前、あなたが小学校三年生の時、子猫だったあたいを拾ってこの家に連れて来てくれた。そして、それから五年間、ずっと一緒に暮らしてきたんだから、今があなたのピンチの時だってことくらい、わかるわよ」
 私はハナに向かって、うなずいた。
「確かに危機的状況にあるけれど・・・」
「カスミちゃん。昨日のこと、覚えてる? 夏休みの最終日まで毎日、あなたは母さんとケンカをくり返していたじゃない。それに、『もうすぐ学校が始まる。担任がイヤだ、友達がイヤだ、勉強がイヤだ。死にたい、死にたい、死にたい!』って叫んでいたじゃない?」
「そう? そんなこと、私、言ってた?」
 ハナは右手を上げて、私の方へ突き出した。
「言ってたわよ。だから、今、こうしてあなたを迎えに来たってわけよ。それで、今日、学校はどうだったの?」
 私はフーッとため息をついてから、言った。
「もう最悪。クラスの連中は私をばい菌扱いするし。担任の五木のババアは私を呼びつけて、『あんたが威張るのが良くない』と、説教しまくるし・・・」
「それで、カスミちゃん。明日からどうするつもり?」
「そうねえ。今晩、暗くなったら、若戸大橋から洞海湾に飛び降るわ」
「それって、まさか自殺?」
「そうよ。私、生きていたって、今のつらい生活がずっと続いていくんだから、死んだ方がましよ!」
「カスミちゃん。死んだらダメだよ。誰かに相談してよ。必ず助けてくれるから!」
 私は泣きながら、叫んだ。
「無理よ! 誰も助けてくれないわ」
「そんなことないって!」
「猫のあんたに何がわかるのよ。あんたは猫でしょう? 人間の苦しみなんか、わかるはずないわ。いいわね、猫は気楽で。受験勉強もないし、人間関係のわずらわしさもないし。食べるものだって、寝るところだって、すべて人間が準備してくれて、あんたは何もしないでいいんだから!」
 私がそう言うと、ハナは頭を垂れて、地面を見続けた。
 しばらくして、ハナは顔を上げて、私の目を睨みつけた。
「それじゃあ、カスミちゃん。私と入れ替わってみる?」
 私はハナの目をのぞき込んだ。
「ハナ。今、何と言ったの?」
「聞こえなかった? あたいが言ったことは『カスミちゃんとあたいが入れ替わらないか』っていうことよ」
 私は思わず笑ってしまった。
 ハルが頭をかしげた。
「カスミちゃん。何がおかしいの?」
「だって、あんた、変なこと、言ったでしょ? 私とあんたが入れ替わるっていうことは、猫が人間になって、人間が猫になるっていることでしょう? そんなこと、できるわけないじゃん!」
 私は再び笑い続けた。しかし、ハナは黙ったまま私の顔を見続けた。
 私が笑い終えると、ハナがコホンと咳をしてから、つぶやいた。
「カスミちゃん。あたいが言ったことは冗談じゃないのよ。あたいはあたいの母ちゃんから教えてもらったのよ、人間と猫が体を入れ替わる方法を」
「本当に?」
「本当よ。そんなことより、カスミちゃん。あなた、本当に猫になりたいと思っているの?」
 私はしばらく考えてから、答えた。
「当たり前よ! だって、人間として生きることはつらいことばかりだもんね。物事はすべて、自分の思い通りになることはない。それに、人間はつらい仕事をして金を稼いでいかないと食っていけないし。イヤな人間と付き合っていかないといけないし、やがて年老いて、病気になって、死んでいかないといけないし」
「猫だって、いつかは年老いて、病気になって、死んでいくよ。おまけに猫の寿命は十五歳くらいだし」
 私は口をとがらせて言った。
「でも、猫は楽でしょう? 受験競争もないし、就職活動だってないし、うざい人と付き合っていかなくてもいいし、働かなくても食べる物も住む所もあるし・・・。やっぱり私、猫になりたいわ」
 そう言って、私はハナを見た。ハナは静かに目を閉じて、頭を左右に振った。それから顔を上げて、私に目を向けて言った。
「それじゃあ、決まりね。あたいとカスミちゃん、入れ替わろうよ」
「いいわよ。でも、ハナ。ネコと人間が入れ替わる方法って、どうやるの?」
「教えてあげるわよ。カスミちゃん。今からあたいを家に連れて帰ってよ。そして、夕飯を食べてから、夜の十一時頃、あたいを高塔山まで連れて行ってよ」
「高塔山?」
「そう、高塔山。カスミちゃんの家の裏手にある山よ。あそこに鷹見神社があるでしょ? そこに連れて行ってよ」
「鷹見神社? いいけど、なんで?」
「今日は満月でしょう? 満月の晩、午前0時に鷹見神社の境内から二人で階段に向けてジャンプするの。そうしたら、私達、入れ替わることができるのよ」
「つまり、私があんたの体の中に入って猫になり、あんたが私の体の中に入って人間になるっていうこと?」
「そうよ」
 私は「ヘヘッ」と笑ってから言った。
「面白そうね。それじゃあ、詳しい話をしようよ」
「ちょっと待って、カスミちゃん。あたいはおなかがすいたよ。とにかく、今はご飯を食べたいよ」
「そう? わかったわ、ハナ。それじゃあ、家に帰って、一旦、食事。それから、出かけましょう」
「オッケー」
 そう言うと、私はハナを抱き上げて、家に向かった。


 私の家は海岸通りから歩いて三分ほどにあるボロボロの木造だ。
 家に入って、台所に入った。
 母さんが椅子にすわって、ウトウトしていた。髪の毛はグシャグシャになっていて、顔の皮膚もカサカサだった。
 母さんが片目を開けて、私を見た。
「あら、カスミ。お帰り」
「ただいま。何か、食べる物、ある?」
「そうねえ。ラーメンでも作って、食べておいて」
「はい」
 私はそう返事して、私はハナを抱き上げて、自分の部屋に向かった。
ハナは私が抱っこしている間は、「ニャー」と鳴いていた。しかし、私の部屋に入ると、
「ああ、疲れた」とつぶやいてから、私の部屋の床の上で横になった。そして、背中をゴシゴシと床にこすり付けながら、転げまわった。
 私はハナに向かって言った。
「ハナ。ここから高塔山の鷹見神社まで歩くと四十分位かかるから、夜の十一時くらいになったら、出発しよう」
 ハナは首を上下に振った。
「そうだね。そうしよう。それまで、あたいは昼寝させてもらうわ」
 そう言うと、ハナは床の上に横になって、目を閉じた。
 

 夕飯を食べ、風呂に入って、私は自分の部屋に戻った。ハナが部屋の中でゴロンと転がっていた。
 やがて十一時になり、私は下靴を玄関から持って来て、自分の部屋の窓を開けた。そして、まずハナを抱き上げて、外へ出した。次に私は窓の枠に足をかけて、靴を地面に投げ、地面に降りた。
 ハナが私の足の周りをクルクルと回り、頭を私のくるぶしにこすりつけた。
「カスミちゃん。あたいを抱っこしてよ」
「高塔山まで、あんたを抱っこして連れて行くの? 冗談でしょ? あんたはけっこう重たいし、無理だよ」
 ハナが前足の爪を出して、私の足を引っ掻いた。
「あたい、きついんだよ。抱っこしてよ」
 私はフーッと息を吐き出してから、ハナを抱き上げた。そして、暗闇の中、高塔山に向かって歩き始めた。


 夜の高塔山は誰もいない。「カサッ」という音がして、体がビクッと痙攣した。恐る恐る見ると、捨てられたビニール袋が風に飛ばされていった。
 私はキョロキョロと辺りを見回しながら、鷹見神社の鳥居をくぐって、境内に向かった。
 私はハナの頭をポンポンと叩いた。
「ハナ。鷹見神社に着いたよ。これからどうすればいいの?」
 ハナが左の前足で髭を触った。
「今、何時?」
 私は腕時計を見てから言った。
「今、十一時五十分よ」
「そう、ちょうどいい時間ね。よし。それじゃあ、拝殿の賽銭箱の上に立つのよ。そして、十二時きっかりに、あたいとカスミちゃんが一緒にジャンプする。そして、賽銭箱の真上に吊るされている鈴からぶら下がっている麻縄をつかむのよ」
 私はゴクンと唾を飲み込んだ。
「そしたら、どうなるの?」
「ハハハ。そしたらどうなるって、カスミちゃんとあたいの中身が入れ替わるんだよ」
「本当に?」
「本当に!」
 私は腕時計を見た。十一時五十五分になっていた。私はハルを抱き上げ、拝殿の階段を上り、賽銭箱の上に立った。
 腕時計に再び目をやる。秒針が止まることなく少しずつ少しずつ動き続ける
「チクッ、チクッ、チクッ」
 針の音が頭の中に響いてくる。
やがて、時計は十一時五十九分を指した。私はハルの目を見た。ハルは暗闇の中で目をキラリと光らせ、うなずいた。
「カスミちゃん。あと何秒かを声に出して、カウントしてよ」
「うん」
 私は時計を見ながら、カウントダウンを始めた。
「あと三十秒。・・・あと、二十秒。ジュウ! キュウ! ハチ! ナナ! ロク! ゴ! ヨン! サン! ニ! イチ!」
 私は両足の膝をグッと伸ばして、賽銭箱から麻縄に向かってジャンプした。私の腕の中にいたハナも足で私の胸をグッと蹴ってジャンプした。私は両手を延ばして、麻縄を掴んだ。ハナも麻縄を掴もうと前足を延ばした。
 私は両手でうまく麻縄を掴むことができた。「やった!」と思った瞬間、鈴の大きな音がして、私は地面に落ちていった。私は理解した、「麻縄が切れたんだ」と・・・。次の瞬間、私はお尻を地面にひどく打ち付けた。
「痛い!」
 そう叫んだところまでは意識があった。しかし、次の瞬間、私の意識は次第に薄れ、私は地面に倒れていった。


 それからどれくらいの時間が過ぎただろうか? 遠くから声が聞こえてきた。
「カスミちゃん! カスミちゃん! 大丈夫? 目をあけてよ!」
 甲高い、女の人の声。聞き覚えのある、懐かしい声。
 誰かが私の頭をやさしくなでるのを感じた。私は目を開いてみた。その瞬間、私の体が一瞬にして凍りついた。なぜなら、目の前に「目が細くて、顔が丸くて、天然パーマの見慣れた顔の女の子が立っていたから。それは、間違いなく「私・・・楢崎カスミ」だった。
 私の顔をした女の子が口を開いた。
「ああ! カスミちゃん! 意識が戻ったのね! よかった!」
 私は勇気を出して、口を開いた。
「あなた・・・、だれ?」
 私の顔をした女の子が目を細めて笑った。
「わたし? わからないの? ハナよ!」
 次の瞬間、私は自分の手を見た。それはふわふわの毛に覆われ、内側にはプニプニの肉球がついていた。次いで、私は自分の体を見た。体は一面、毛におおわれていた。茶色と白色と黒色の毛。
 私は目の前の「私」に向かって言った。
「あなた、ハナなの。あなたは『私』になったの? そして・・・」
 「私」は大きくうなずいた。
「そうよ。猫だった私は人間になって、人間だったカスミちゃんは猫になったのよ!」
「本当に私達、入れ替わったんだ?」
 私は歩いてみた。私は両手を地面につけて、四足で歩き始めた。
 ハナを見て、言った。
「私、四足で歩いている!」
「そうよ。だって、あんたは猫なんだから。あなたは今や、完全な猫よ!」
「ハナ。あなたは、人間になって、どんな感じ?」
 ハナは両肩をすくめて、首を横に倒した。
「さあ、まだ、わからない。とにかく、今日は家に帰って寝ようよ。眠たいわ」
 そう言うと、ハナは私を抱き上げて、鷹見神社の鳥居をくぐって、高塔山を折り始めた。

第2章 猫として生きる 

 翌日、八月二十五日。
 私は朝、目覚めた。布団の上だった。横にハナが眠っていた。
 私はハナに向かって言った。
「ハナ! もう六時半だよ。起きないと、学校に間に合わないよ」
 ハナはガバッと起き上がった。
「そうだった。私は中学生の女の子なんだった。学校に行かなくっちゃ」
 私はクスッと笑ってしまった。内心、思っていた、「ハナ。学校に行って、勉強しなくっちゃいけないんだ。それに、わずらわしいクラスメートや担任と付き合っていかなくっちゃいけないんだ。大変だ」と。
 私はハナに尋ねた。
「ハナ。聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「猫として生きていくためには、何をどんなふうにやっていけばいいの?」
 ハナは両腕を胸の前で組んで、目をつむって、しばらく考えてから、言った。
「カスミちゃん。あたいからあんたに教える必要は、たぶんないわ」
「なんで?」
「猫として生きるために新しい知識や新しい技能なんてたぶん必要ない。本能のままに行動すれば、きっとうまく行くよ」
「ふーん。そんなもんなんだ」
 私はうなずいた。
 それから、私はハナと一緒に台所に行った。母さんが台所に立っていた。私は思わずしゃべりかけた、「母さん、おはよう」って・・・。
「ミャーン」
 しかし、口から出て来た言葉は猫の鳴き声だった。
 母さんが私の頭をなでながら、つぶやいた。
「ハナちゃん。おなか、すいたの? 朝ごはん、あげようね」
 私はハナを見上げた。ハナが私の耳元でささやいた。
「カスミちゃん。忘れないで。あんたが人間の言葉をしゃべれるのは、私に対してだけよ。他の人の前では人間の言葉はしゃべれないのよ!」
 私は答えた、「ミャー」と・・・。
 母さんはキャット・ドライフードをお皿に入れて、それから水もお皿に入れて、床に置いてくれた。私は鼻を寄せてドライフードの臭いをかいで、少しだけ口にいれてみた。カリカリして、味もけっこうおいしかった。私はボリボリと食べ始めた。
 ハナも私と同時に朝食を食べ、制服に着替えて、家を出ていった。
 私は玄関でハナを見送った。
 私は部屋に戻ってから、一瞬考えた、「何をしようかな」と。でも、その時、勝手に私の体が動き始めた。私は舌を出して、自分の前足に生えている毛をぺろぺろと舐め始めた。そして、私は前足の後はおなかの辺りの毛をぺろぺろと舐め始めた。私は舌に抜け毛やほこりがついてくるのを感じながら、思った、「ああ、これが毛づくろいなんだ。これって本能的な行動なんだ」と。
 毛づくろいをすると、私は急に眠たくなってきた。体が勝手に横になり、瞼が降りて来て、目を閉じてしまう。そして、その後、眠ってしまった。
 しばらくして、目を開けて、掛け時計を見た。もう十二時だった。私は洗面所に行って、猫のトイレの砂の上で用を足した。それから、私はおなかがすいたので、台所へ向かった。母さんがテレビを見ていた。私は母さんの足にまとわりつき、「にゃあーん」と鳴いた。
 母さんは私の頭を撫で、昼食を準備してくれた。私はご飯をもらってから、また、毛づくろいをして、また、スヤスヤと寝た。
 目が覚めて、掛け時計を見た。午後五時になっていた。そして、ハナが還って来た。
 ハナは自分の部屋に返って来るなり、畳の上に横になり、叫んだ。
「あーっ、つかれたぁ~」
 私はハナの顔を覗きながら言った。
「お疲れ様」
「本当にクタクタで、死にそうよ。人間って、大変なのねえ~」
 私は頭を上下に振った。
 ハナは私の顔を見つめた。
「あんたは今日一日、何をしていたの?」
 私は考えた、「私が今日やったこと? それは・・・ご飯を食べて、毛づくろいして、そして、寝ていた・・・」って。
 ハナが人差し指で私の頭をチョコンと押した。
「言わないでもわかってるわ。あんた、一日のほとんどは寝ていたでしょ! わかるわよ。だって、あたいもそうだったから」
「そう言われれば、そうね」
「仕方ないわよ。それが、猫の本能的な行動パターンなんだから」
 私は内心、思っていた、「猫って、人間に比べて、楽でいいな。だって、学校にも仕事にもいかなくてもいい。宿題もしなくていいし、お金を稼ぐ必要もない。ご飯も飲み物も人間が準備してくれて、私は一日の大半を寝たり毛づくろいしたりボーッとしたりしていればいいんだから」って・・・。
 ハナがつぶやいた。
「あ~。あたい、猫に戻ろうかなあ・・・」
 私は静かに「ミャー」と鳴いた。
 その時、私は急に爪とぎがしたくなった。
「ハル。私、爪とぎしたくなってきた」
 私はテレビの横に置いている爪とぎ用マットに向かって走っていった。そして、マットに爪を立ててガリガリと爪をといだ。そうすると、スッキリできた。


 私が猫になって、しばらくは平和な日々が続いた。
 八月終わりになって、私の体が変化してきた。オシッコの回数が増えて、普段より体を活発に動かすようになってきた。それから、ハナに向けってしつこく甘えるようになっていた。
 私はハナに向かって尋ねた。
「最近、体の調子がいつもと違うのよ。擦り付けの行動を本能的に取ってしまうの。これって、なぜなの?」
 ハナが「フフフ」と笑った。
「発情期が始まったわね」
「え? 何? 何が始まったって言ったの?」
 再びハナは「フフフ」と笑って、言った。
「そのうち、わかるわよ。台所の勝手口の下にあんた専用の小さな出入口があるから、外に出たくなったら、出るといいわ」
 ハナがなぜそんなことを言うのか、私はわからなかった。
 しかし、翌日、私は家の外に出たくてたまらなり、出入口から外へ飛び出した。そして、私は海岸通りの方へ向かって歩き始めた。
 海岸通りの近くに来ると、私の口から勝手に大きな鳴き声が出始めた。そして、体がほふく前進のような体勢になっていき、お尻が勝手に高く持ち上がるようになった。そして、私の全体から変な臭いがするようになった。
 私は思った、「なんなの、この動作と臭いは?」って。
 その時、私の前に一匹の雄猫が現れた。まっ黒くて、でかい猫だった。落ち着きなく、大きな声で鳴き、私に近づいて来た。と思うと、その雄猫は私の首を噛んできた。私の全身から力が抜けていった。次いで、雄猫は私の上に覆いかぶさってきた。私の首を噛んだまま、後ろから私の背中の上に乗り、前足で私をはさむようして抱え込んだ。そして、雄猫は背中を丸め、私のお尻の部分に自分の下半身を当てるように後ろ足を足踏みした。それから、雄猫は腰を前に突き出してきた。私の体の中に雄猫の体の一部が入って来た。その時、すごい痛みを感じた。雄猫は活発に腰を動かした。しばらくして、雄猫は私から離れた。勝手に口から大きな鳴き声が出て来た。そして、私の前足は雄猫に向けてパンチを食らわそうと勝手に動いた。
 しかし、しばらくして、私の体は自然に横になり、私は舌を出して自分の性器の周辺を舐めてきれいにし始めた。
 私はその時、やっとわかった、「ハナが言っていたことは、このことだったんだ。つまり、私が発情期に入っていたっていうこと。そして、さっきのことは雄猫と交尾をしたっていうことなんだ。ということは、私は妊娠したかもしれない」と・・・。
 夕方、私は家に帰って、ハナを見つけて、言った。
「ハナ。聞きたいことがあるの。私、今日・・・」
 ハナは私を見ると、ニヤニヤしながら言った。
「言わなくても、わかってるわ。あんた、今日、たぶん雄猫と交尾してきたでしょう? だって、あんた、発情してたもんね」
 私はコクンとうなずいた。
「それで、私、妊娠しているかもしれない」
「三週間くらいしたら、わかるわよ」
「なぜ三週間なの?」
「妊娠していたら、三週間後、乳房やおなかが膨らんでくるわ。それに、ご飯をいつもよりたくさん食べるようになり、じっとして過ごすようになるわ」
「えーっ、そうなの! ハル。あなた、なんでそんなこと、知ってるの?」
「ここにやって来る前、母さんから聞いたの。いいこと、おしえてあげようか? 出産が近づいて来ると、猫はどうすると思う?」
 私は考えてた、「たぶん、おなかが張ってきたり、痛みが増してきたりするんじゃないかしら」と・・・
 ハナは私の目をのぞき込んだ。
「猫はね、出産が近づくと、分娩のために普段とは違う行動をするようになるの」
「教えて、教えて。一体、どんなことをするの?」
「そわそわ落ち着かなくなって、気が立って、人間が触ろうとすると、攻撃的になるわ。それから、陣痛を来ると、毛布などを掘るしぐさをして、トイレの体勢を取るけど排泄はしないようになるわ」
「へーっ! それじゃあ、出産はいつになるの?」
「そうね。出産は二ヶ月後ね」
「二ヶ月後! すぐじゃない! ハナ! 出産のための準備って、一体、何をすればいいの? 教えて!」
 ハナは右手の人差し指で自分の鼻の下をポリポリとこすりながら、言った。
「猫の出産に人間が手助けすることはないわね。正常な出産であれば、猫だけで上手に出産できるわ」
「えーっ! そんなあ! ハナ。私を助けてよ」
「カスミちゃん。人間は何もしない方がいいんだよ。逆に、猫の出産の時に人間が手を出すことで、自然な出産の流れを妨げてしまって、母猫がうまく出産を続けられなかったり、育児をしなくなったりすることがあるんだよ」
「そうなの?」
「そうなんだよ。猫の本能に任せれば、すべてうまく行くよ」
 私は自分のおなかをじっと見た。私は思った、「一体、これからどうなるんだろう?」と・・・

第3章 三匹の子猫を出産する

 雄猫と交尾してから三週間が経った。ハナの教えてくれた通りだった。私の体が変化し始めた。乳首はピンク色になってきた。
 妊娠して一ヶ月経った頃は、おなかがプックリと膨らんできた。おなかの中で何かが勝手に動く。明らかに赤ちゃんが育っていることがわかるようになってきた。
 妊娠一ヶ月半。私はおなかが減ってたまらない。とにかく、ご飯が食べたい。そして、ブクブクと太っていく。そして、全く動きたくなくなってきた。
 妊娠して二ヶ月が近づいて来た。もうすぐ出産。ハナが私のもとへやって来た。
「カスミちゃん。もうすぐ生まれるかもね。大丈夫。安心して。あんたのために、出産場所を作ってあげるから。カスミちゃん。あんた、どこで出産したい?」
「そうね。カスミちゃんの部屋で出産したい」
「そう。わかったわ。まかしておいて」
 そう言って、ハナは私のために出産場所を作ってくれた。私が使っていた部屋の片隅に段ボールの箱を置いてくれて、柔らかくて清潔な布を床に敷いてくれた。また、近くに餌と水を置いてくれて、近くにトイレも設置してくれた。
 私はハナが準備してくれた場所に入った。薄暗くて、気持ちよかった。すると、乳房が母乳が出始めた。
 私は思った、「もうすぐなんだ」と。
 すると、急におなかが痛み始めた。「ああ、これが陣痛なんだ」と思った。それから一時間ほどすると、おなかの中の子猫たちが移動し始めたのがわかった。子どもたちが産道を通過して、膣の開口部で一時的に止まっているのがわかった。
「ああ、痛い! 痛い!」
 私は汗をかいて、体を左右に振りながら、叫んだ。
 ハナが励ましてくれる。
「カスミちゃん。頑張って。あと、もう少しよ!」
 そうこうしているうちに、ものすごい痛みが襲ってきた。私は、激しく呼吸を繰り返し、そして、いきんだ。
「気絶する!」
 それは経験したことのない痛みだった。それは、計り知れない恐怖だった。
 ハナが叫んだ。
「カスミちゃん。頑張れ!」
 次の瞬間、膣の開口部から赤ちゃんが出て来た。私は叫び続けた。
 ハルが叫んだ。
「産まれたよ!」
 私はホッとした。私は赤ちゃんについているヘソの緒を噛み切った。そして、赤ちゃんの体を舐めはじめた。しかし、それは終わりではなかった。十五分分ほどして再び痛みが襲ってきた。そして、二番目の赤ちゃんがでてきた。最初の子と同じように、ヘソの緒を噛み切り、赤ちゃんをぺろぺろと舐めた。そして、さらに十五分後、三番目の赤ちゃんが出て来た。やはり同じように、ヘソの緒を噛み切り、赤ちゃんを舐めた。
 そしてしばらくして、私は赤ちゃんと共に体内から出て来た胎盤を食べ始めた。なぜだかわからないけど、私は自然と胎盤を食べた。美味しかった。
 それから先のことはあまり覚えていない。私はそれから倒れるように寝た。赤ちゃんたちが私のおっぱいに吸い付くのを感じながら。


 出産後、三日したから、ハナが私に向かって言った。
「ねえ、カスミちゃん。あんたの産んだ子猫ちゃんたちに名前をつけたほうがいいと思うんだけど」
 そう言われて、私は気づいた。
「そうね。まだ、名前をつけてなかったわね。でも、赤ちゃんたちの名前、何がいいかな?」
「あたい、子猫の名前、考えてみたんだ」
「教えて」
「うん。最初に産まれた三毛猫のメスの名前は『サクラ』。二番目に産まれたまっ黒の雄猫は『茶々丸』。三番目に産まれた黒白の雌猫は『モモ』。どうかしら?」
「サクラと、茶々丸と、モモ! いいわね!」
「それじゃあ、決まり!」
 それから、私は三匹の赤ちゃんたちの側を離れず、母乳をあげたり毛づくろいをしたりして過ごした。

第4章 我が子と引き離される

 それは三月三日だった。
 私はこの頃、ぐったりと疲れ果てていた。なぜって、子どもたちは生後六ヶ月を迎えて、とにかく、元気いっぱいだった! 全くジッとしていなかった。子どもたちはやんちゃ過ぎて、私は頭がどうにかなりそうだった。
 サクラもモモも茶々丸も少しずつ大人の猫になり始めていた。歯は、乳歯から永久歯に生え変わりはじめた。生活習慣も身に付きはじめた。茶々丸はやっぱり雄らしく、マーキングを始めた。
 お昼ご飯を食べ終えて、子どもたちが昼寝した。している時は、同時に昼寝をした。そうでなければ、体がもたなかった。
 しばらくして、目が覚めた。そして、周りを見渡して、体が震えた。
「子供たちがいない!」
 私の横にいるのは、茶々丸だけだった。
 私は大声で叫びながら、家の中を走り回って、子どもたちを探した。しかし、見当たらない。
 母さんを見つけて、私は叫んだ。
「サクラとモモがいないの! どこへ行ったの! 一緒に探して!」
 でも、母さんは私をボーッと見るだけで、少しもあわてない。しばらくして、私は理解した、「母さんに人間の言葉でしゃべりかけているつもりでも、母さんには猫が『ニャー、ニャー』と鳴いているとしか聞こえないんだ」と・・・
 私は家の外に出て、サクラとモモを探した。頭に血が昇って、クラクラして、倒れそうになりながら・・・。しかし、子どもたちは見つからない。
 それから後の時間をどう過ごしたか、私はわからない。発狂したように叫びながら、家の外をウロウロと徘徊した。
 そして、夕方になって、ハナが学校から帰って来た。私はハナの所へ駆け寄った。
「ハナ! 子どもたちがいないのよ!」
 ハナは右手で自分のほっぺたをボリボリとこすりながら言った。
「あれ? 言ってなかったっけ? 母さんがサクラとモモを近所の人にあげたって」
「何よ、それ! そんなこと、聞いてない!」
 私は半狂乱になって、爪を出して、ハナに飛びつき、その顔を引っ掻いた。ハナが私の首根っこを掴んで、私を引きはがした。
「何するのよ!」
 ハナは私を壁に向かって投げつけた。
 私は床に倒れたまま、叫んだ。
「どうして母さんを止めてくれなかったのよ」
「あのね。勝手に妊娠しといて、三匹も子どもを産んで、そんなこと言えないでしょ! 猫の餌代ってかなりかかるんだよ。うちは貧しいの。茶々丸だけでも残してもらったことを有難いと思いなさい!」
 私は大声で鳴き始めた。私は思った、「人間って、ひどいんだ。猫の親子を平気で引き離すんだ。むごい。むごすぎる」って・・・。

第5章 「人間に戻りたい」と願う

 三月二十五日。
 桜が咲き始めた。例年より少し早い気がする。
 桜の花を見ていると、自然とサクラとモモのことが思い出された。サクラとモモを奪い取られて、早いもので三週間が過ぎ去ろうとしていた。
 今日から春休み。ハナは学校に行かずに、家にいた。私は茶々丸と一緒に家から外に出た。
 

 昼食後、私と茶々丸はいつもどおり毛づくろいをしてから、昼寝を始めた。春の暖かい陽射しを浴びながら、私は熟睡した。
 しばらくして、目が覚めた。辺りを見回す。しかし、茶々丸がいない。
 最初は思った、「茶々丸はそこら辺をうろうろしているのだろう」と・・・。
 私は寝床を飛び出し、家の中を回って、ニャーニャー鳴きながら、茶々丸を探した。しかし、いくら探しても見つからない。イヤな予感がした。
 私は大急ぎでハナの部屋に駆け込んだ。そして、ハナの耳元で叫んだ。
「茶々丸、知らない? いないのよ!」
 ハナは「うーん」と唸った。
 私は声を限りに叫んだ。
「ハナ! 茶々丸がいないのよ!」
 ハナは目を細めて、私を見た。そして、フーッとため息をついてから、つぶやいた。
「ごめんね。あたいはどうしようもなかったんだ。母さんが茶々丸を抱いて、どこかへ連れて行ったわよ」
 私は半狂乱になって、泣き叫んだ。
「どこかへって、一体、どこへ連れて行ったのよ!」
「母さん、言ってたわよ、『子猫を欲しがっている人が近所にいるって。だから、その人に茶々丸をあげる』って・・・」
 脳天をかち割られたような気分がした。
「嘘でしょ! それで、なんで母さんを止めてくれなかったのよ! ふざけないで。この間、私はサクラとモモを奪われたばかりなのよ!」    「カスミ。私が悪いんじゃないわ。母さんが悪いのよ。私のせいにしないで!」
「そそそ、それで、あああ、あんた、母さんが茶々丸を連れていくのを黙って見ていたの!」
 ハナは右手で拳を作って、平然と言い放った。
「だって、仕方ないでしょう? 母さんがそうするって言い張るんだから!」
 私の手は思わず爪を出して、ハナの顔を力いっぱい引っ掻いた。
「痛いっ! 何するのよ!」
 私は泣きながら、ハナを攻撃し続けた。
「私の子を返して! 茶々丸を取り返してきて!」
「やめなさいよ!」
 ハナは私の体を掴んで、部屋の隅に向かって投げつけた。
 私は立ちあがって、ハナに向かって叫んだ。
「すべての我が子と生き別れにされたのよ。この辛さ、あなたにわかる?」
 ハナは私を睨みつけて、冷たく言い放った。
「知らないわよ。原因はあんたが作ったんでしょ! どこの馬とも知れない雄猫と勝手に交尾して、三匹も子猫を産んだからよ。あんたのおかげで、うちの家族はどれだけ迷惑したと思ってるの!」
 私は呆然と立ち尽くした。
「それじゃあ、私は我が子と二度と会うことはできないっていうの!」
「そうね。たぶん、そうなるわね」
 私はハナを睨みつけた。
 ハナは目を吊り上げて、私を見た。
「私が悪いっていうの? 冗談じゃないわ!ふざけないで。原因は、あんたが『猫になりたい』って言ったからでしょ。あんたの希望通りに猫にしてあげたのに、あたいを責めるなんて、筋違いよ!」
 その時、私は思った、「このままだはダメだ。私には自由がない。私が猫でいる限り、動物の本能のままに行動するしかないし、飼い主の人間の思うままに運命を操られるんだ。人間に戻るしかない」と・・・。
 私は大きく息を吸い込んでから、叫んだ。
「ハナ! 私、あなたにお願いがあるんだ」
 ハナは体がビクッと震わせてから、私を見た。
「今度はお願い? 一体、何よ!」
 私は頭を左右に振った。
「人間に戻りたい!」
 ハナはベッドの端に座り直し、左手を太ももの上に降ろして、右手で頭の後ろをゴシゴシとこすりながら、私の目をジッと見た。
「カスミ。あんた、一体、どうして人間にもどりたいって思ったの?」
 私は舌で下唇をペロッと舐めてから言った。
「猫ってつらすぎる。人間の方がまだマシだわ」
「それ、どういうこと?」
「私が猫だから、私は我が子をすべて失ったんだわ。最初にサクラとモモを連れて行かれた時もつらかった。けれど、まだ茶々丸は手放さずに済んで、私は泣く泣く我慢した。でも、今度は茶々丸も連れて行かれた。私が猫である限り、自分の愛する人や大切な人とそばにいることができない。私が猫でなくて、人間だったら、こんなことにならなかったんだわ!」
「それから?」
「猫って『自由』がないわ!」
 ハナが頭をかしげた。
「猫には『自由』がない? それって、どういう意味?」
 私はフーッと長く息を吐いた。
「猫は本能のままに行動するしかないのよ。だけど、人間は違うわ。人間は感じ方・考え方・行動の仕方を選択する自由があるのよ。たとえ、自分ではコントロールできない悲惨な状況が起きたとしても、人間だったら、悲惨な状況に対する反応を決めることができるわ。私、人間にもどりたい! ねえ、ハナ! お願い! 私を人間に戻して!」
 私はハナにすり寄っていった。ハナは両腕を胸の前で組み、そして、目を閉じて、「うーん」と唸った。
 しばらくして、ハナは目を開いて、私を見た。
「ごめんね、カスミちゃん。私、やっぱり人間がいいわ。猫はいや。あんたを人間に戻すっていうことは、私が猫に戻らなきゃいけないっていうことでしょう? そんなの、イヤよ」
「そんな! 私を人間に戻して!」
 涙が勝手に流れ出し、私はその場に倒れ込んだ。
 ハナの声が聞こえてきた。
「あたい、人間になって、わかったよ、『猫より人間の方が断然いい』ってことが。だって、人間の方が楽で幸せよ。猫は本当に大変よ。私は幼い頃に飼い主の人間から高塔山に捨てられた。その時は腹が減って腹が減って、死にそうになった。でも、カスミちゃんが私を拾ってくれた。その時は本当に嬉しかったよ。感謝してるよ。でも、やっぱり猫には戻りたくないんだよ。ほとんどの人間は餓死することなんてないでしょう? でも、野良猫は食べる物がなくて、餓死するのよ。それに猫は十五歳までしか生きられない。人間は長生きできるでしょう? おまけに人間は家族一緒に仲良く暮らしていくことができるでしょう?」
 私は訴えた。
「ハナ! 人間より猫の方がいいんじゃないの? あなたが猫に戻っても、私ははあなたが死ぬまで食べ物や寝床を準備してあげるわ。 それに、猫はお金を稼ぐ必要もないでしょ。イヤな仕事をする必要もないし、イヤな人間と付き合っていかなくてもいいじゃない! それにそれに・・・、人間は脳が発達していて、アレコレと心配して、悩み苦しんでしまうわ。猫はあまり考え込まないから、悩み苦しむこともない!」
「だめよ、そんなこと、言ったって! 私はもう人間として生きてみたのよ。人間として生きるということは確かに苦悩の連続だわ。物事は自分の願った通りになることは、ほとんどない。人間は脳が発達していて、余計なことを考えすぎるわ。過去の事を後悔したり、未来のことについて必要以上に不安になったり。だけどね、人間は自分の運命や外部の環境に対応していく『自由』があるわ。本能にただ従うだけでなく、選択できる『自由』があるわ。苦悩を突き抜けて『歓喜』を感じることもできる。それって人間にしかできないことだわ」
 そう言うと、ハナは立ち上がり、部屋から出ていった。私は部屋に閉じ込められたまま、ニャーニャーと鳴き続けるしかなかった。


 昼過ぎになって、ハナが部屋に戻って来た。手には私の昼食を持っていた。ハナは右手を私の頭の上に乗せて、よしよしと撫でた。
「ごめんね、カスミちゃん。あんたは人間に戻りたいだろうけれど、あたいは猫に戻るなんて二度と嫌だからね、我慢してね。残念だけど、あんたは死ぬまで猫のままよ。わかる? あんたはこれから猫として生き、そしていつか、猫として死ぬのよ」
 ハナが私の前にエサを置いた。その瞬間、私はドアに向かって走った。ドアはかすかに開いていて、私はその隙間から部屋を脱出した。そして、家の玄関口から飛び出した。そして、私は洞海湾に向かって走り続けた。
 私は海岸通りに到着した。目の前に洞海湾が広がっていた。私は海を見下ろした。海の水はどこまでも澄み切っていた。太陽光線が波に当たって、キラキラと光り輝いていた。海の底にサクラとモモと茶々丸の姿が見えた。
「ミャアー」
 確かに声が聞こえた。「母さん、ここに来て! 私達を助けて」という声だった。
「今、行くよ」
 私は後ろ足を折り曲げてから力一杯伸ばして、海の中へ飛び込んだ。
 私は左右の前足を交互に前に出し、水をかいて、海深く潜っていく。後ろ足を交互に伸ばして、水を蹴って海の底へ進んでいく。はるか海の底でサクラとモモと茶々丸の姿が見えた。子どもたちが前足を曲げて、私に「こっちへ来て」と呼び寄せる。「母さん、早く早く! もっと早く私達のところへ来て」という声が聞こえてくる。私は両手・両足を力の限り回転させて、潜っていく。
 しかし、そのうち息が続かなくなった。全身から力が抜けていく。手足を動かすことができなくなり、口から空気の泡がボコボコと出て来て、海面に向けて上っていく。意識が遠のいて行く。「サクラ! モモ! 茶々丸! 母さん、あんたたちのところへもうすぐ行くよ」と叫んだ。
 私の体は半回転し、腹が海面の方へ向かって行く。背中に重りが埋め込まれたように感じ、海底へ向かってゆっくりと沈み込んでいく。
 その時、声が聞こえた。
「カスミ! 聞いて!」
 聞いたこともない声だった。男の声か、女の声か、わからない。いや、人間の声ではなかった。とにかく、暖かく、包み込むような声だった。
 私は目を開いた。そして、海面を見上げた。遥か遠くの海面が光でキラキラと輝いていた。そして、そこから暖かい光線が私に向かって飛んできた。
 再び、声が聞こえてきた。
「カスミ。あなたは『自由』なのよ」
 私は答えた。
「自由? 私は自由なんかじゃない。周りの世界から束縛や支配を受け、物事は私の思い通りにならないわ」
「確かにあなたは自分の生まれつきの才能や境遇、そして自分の身に降りかかってくる出来事を自由に選ぶことはできない。あなたが持って生まれて来たものや他人、そして過去の出来事や降りかかってくる災難を、あなたは全くコントロールできないわ。しかし、あなたは自分の身に起きた出来事に対して自由に対応することができるのよ。それが『人間』なのよ。猫は状況に反応することができない。できるのは、本能的な行動だけ。しかし、人間は違う。人間はコントロールできないことや苦悩に対して、感じ方や考え方や行動を自由に選択することができるのよ」
「だから何? 私は猫なのよ」
「カスミ。あなたは自分の人生を意義深いものにしていくことができるのよ」
「嘘だわ。私の人生には意味なんかないわ。いいえ。私だけじゃない。人間が生きていくことに意味なんか、ないわ!」
「カスミ。『問い』が間違っているわ。『人生に意味はあるか?』と問いかけてはダメ。あなたはこう問いかけた方がいいわ、『私は自分の人生を意味深いものにするためには、何をすればいいか?』と・・・」
「『問い』が間違っている?」
「そうよ。すべての人の人生に意味があるとかないとかを問うのは、間違っている。一人一人の人間が自分に問うのよ、『私は私の人生を意味あるものにしているのか』と。だって、人生の意味なんて、人によって異なるのよ。他人はともかく、私という一人の人間は自分の人生を意義深いものにできているのかどうかを問わなくてはいけないわ。わしが言っていることがわかる?」
 私は声に向かって答えた。
「ええ、なんとなく・・・」
 声が続いて聞こえてきた。
「カスミ。そして、あなたが自分の人生を意味深いものにしていくためには、『関係性』が大切なんだよ。『三つのものとの関係性』を良いものにしていくのよ」
「何、それ?」
「一つ目は、『自分自身との関係性』。二つ目は、『他者との関係性』。三つ目は、『本当の自分との関係性』」
「一つ目は何?」
「『自分自身との関係性』を良くするためには、自分の価値観・価値を知り、それに忠実に従って、自分の意志で選んだ行動や仕事に集中して取り組むことが大切。世間の空気や雰囲気に従うのを止めて、自分が本当にやりたいことに取り組んだ方がいい」
「二つ目は?」
「『他者との関係性』を良くするためには、他人に良い影響をもたらす行動をとることが大切。そうすることによって、他人にとってあたなたは意味ある存在となれるし、あなたは充実感・満足感を感じることができる。とにかく、自分と他者との間に意義深い信頼関係を作ろうとするんだ」
「三つ目は?」
「『本当の自分との関係性』を良くするためには、本当の自分を知って、自分が本当の自分と一体化することが大切」
「本当の自分って何よ?」
 沈黙が続いた。そして、しばらくして、声が聞こえてきた。
「本当の自分が何かを知るためには、小さなエゴを忘れること。思考を停止させること。自分の体やすべての動植物の中に流れ込んでいる、目に見えないエネルギーに気づくこと。あなたの中にも他人の中にも動物の中にも虫の中にも草木のなかにも、同じエネルギーが流れている。大切なのは、目に見える肉体ではなく、その中に流れている、『イノチ』と呼ばれる透明なエネルギー。あなたの本当の自分とはそれなのよ」
「何よ、それ! そんな説明じゃあ、わからないわ」
 私は叫んだ。しかし、答えはなかった。
 私は肺の中にある最後の空気のかたまりを履きだした。一つの丸い空気のかたまりがユラユラと海面に向けて上昇していく。私の体はゆっくりと海底に向かって沈んでいく。私は思った、「ああ、私はもうすぐ死ぬんだ」って・・・。
 その時、ザボンという音が聞こえた。誰かが海に飛び込み、私に向かって泳いで来る。
「誰! 誰なの?」
 私は最後の力をふりしぼって、目をこじあけた。目の前にチビでデブでブスの女の子が見えた。それは間違いなく、『楢崎カスミ』だった。
「ハナ! あなたなの!」
ハナが右手で私の体をわしづかみにした。そして、左手と両足を使って水の中を泳ぎ、海面に向かって上昇していく。
 力が全身から抜けていく。もうダメ。「ありがとう、ハナ。でも、もう、私、もうすぐ死ぬわ」とつぶやいた。


 それから、どれくらいの時が過ぎたか、わからない。寒さで体がブルッと震えて、私は意識を取り戻した。
 目を開くと、目の前に真っ青な洞海湾が広がっていた。
 私は辺りを見渡した。左手を見た。真っ赤な巨大な橋が見えた。若戸大橋だった。次に右手を見た。洞海湾に沿って走る海岸通りが続いていて、レトロな建物が立っていた。そして、私は視線を下げ、自分の体を見た。なんとそこには『私』がいた。『人間の、楢崎カスミ』がそこにいた。
 私は両手で自分の体を頭のてっぺんから足の先まで触った。まちがいなく、私の体だった。なつかしい、楢崎カスミの体だった。
「ああ、私は人間に戻ったんだ。なぜだからわからないけれど、猫から人間に戻ることできたんだ」と、私は思った。体から力が抜けて、私は地面に座り込んだ。
 次の瞬間、私は絶叫した。
「ハナ! ハナ! あなた、どこにいるの!」
 私はイヤな予感がして、ベンチを立ち上がり、海へ向かって走っていった。そして、埠頭に立ち、海の底をのぞき込んで、ハナを探した。私は大声で「ハナ! ハナ!」と叫びながら、海の中にハナがいないか、探し続けた。しかし、どこにもハナはいない。一瞬、私の頭の中に思いが浮かんだ、「ハナは私を助けるために海に飛び込んで、そして、死んでしまったのではないか」と・・・。
 その時、鳴き声が聞こえた。
「ミャーン」
 私は首を回して、鳴き声が聞こえた方を見た。
 ハナだった。三毛猫のハナだった。それは間違いなく、我が家の雌猫のハナだった。ハナは体をブルブルッと震わせて、全身の毛から水分を飛ばした。
 私は全速力でハナに近づいていき、そして、ハナを抱きしめた。ハナの体は潮水に濡れて、冷たかった。それでも、私は力を込めて、抱きしめた。
「グミャーン!」
 ハナは力一杯抱きしめられて、苦しかったのか、大声で鳴き叫んだ。全身をくねらせて、私の両手から脱出しようとした。
「ごめんね。痛かったんだね」
 私はハナを地面に降ろした。
 ハナは私を見上げた。そして、私の足の周りをグルリと回って、頭を私の足に擦り付けた。
「ミャー」
 そう鳴いて、ハナは尾をまっすぐに立てた。
 私はハナに声をかけた。
「ハナ。あなた、どうして人間の言葉をしゃべらないの? 人間の言葉はどうしたの? しゃべらないの?」
 私は何度も、そんなふうにハナに問いかけた。しかし、返って来るのは、「ミャー」という鳴き声だけだった。
 私はハナを抱き上げた。そして、右手でハナの頭を撫でてから、言った。
「ハナ。あなたは猫で、私は人間。外見は違って見えるけれど、私達の中には同じものが流れ込んでいる。私達は同じ仲間だよ。これからもずっと一緒だよ。仲良くしようね」
 ハナは目を細めて、「グルル」と小さくつぶやいて、頭を上下に軽く振った。
 私はハナを胸に抱いたまま、自宅に向かって歩き始めた。 
 しかし、私はなぜだかわからないけれど、ふっと立ち止まった。
 私は後ろを振り向いた。若戸大橋が夕陽を浴びて、キラリと真っ赤に光っていた。私は輝く夕陽を浴びた。その時、さわやかな風が私の体を吹き抜けていった。
「ミャアー」
 ハナが小さく鳴いた。
 私達は橋のたもとをゆっくりと歩き始めた。

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