<佐伯祐三展>大阪中之島美術館:湿り気の無い日本風景画は「街歩きスケッチ」のようだ。パリの都市画はゴッホとは真逆の筆墨文化の遺伝子では?(その1)
はじめに
表題の佐伯祐三の美術展を大阪中之島美術館で観たのは4月27日でした。
佐伯祐三展は、今年の初めに「東京ステーションギャラリー」で開催されており、東京在住の私がなぜ大阪で?と読者は疑問に思われるかもしれません。
第一の理由は、このnote記事の断りに「線スケッチの立場で美術展を見る」とありますように、佐伯祐三の絵は当初「線スケッチ」とは関係がないと思っていたので、東京会場に行くつもりはなかったことです。
ところが、その後続々と投稿されたnoteの佐伯祐三展訪問記を読むと、「線スケッチ」とは直接関係ないのですが、私が永らく関心があったパリから帰国後の下落合の風景画が展示されていること知り、心変わりしたのです(関心については後述します)。それが第二の理由です。
大阪会場の美術展が始まった直後に関西に行く用事ができたので、さっそく事前予約して出かけたという訳です。
この記事では、パリから帰国後の「下落合の風景画」と、晩年の「パリ都市画」の二つに焦点を絞ります。
まず感想の概略を下にまとめます。
感想
(1)第一次パリ滞在からの帰国後の「下落合の風景画」
■なぜ私は下落合の風景画に関心があったのか?
日本の油絵については、幕末の高橋由一やその後多数輩出する著名な洋画家達、少なくとも大正以前の洋画家達の絵は、欧米、特にパリで流行している絵を咀嚼することに精一杯で、まだ試行錯誤中のように見えます。
単に箔をつけるためにパリに行った画家もいたと聞きますが、大多数の画家達はパリでも認められるような絵を目指したはずです。
私は明治以降の洋画家が、いかに西洋の水準に追い付こうとしたのか、これまでは東洋の筆墨文化に浸っていたのを、まったく異質な西洋絵画をどのようにして自分のものにしようと苦しんだのか、その結果どのように作品が変化したのかその過程に関心があります。
佐伯祐三の絵についてもそうです。「ヴラマンクに一喝された」とか、「ゴッホやフォービズム、さらにはユトリロの影響を受けた」という話を見聞きしているので、作品もそのような先入観で見ていました。
とはいえ、私が見たのは実物ではなく、教科書や一般美術書の印刷物で、その場合は今回も展示された「郵便配達夫」やパリの石壁と広告文字を描いた代表的作品ばかりで、その他の作品は目にしたことがありませんでした。
さて、突然ですが私が描いている「線スケッチ」に話題を変えます。
その「線スケッチ」の中に、「街歩きスケッチ」があります。描く対象は観光名所もありますが、何気ない街の風景を描くことも多いのです。現在、noteの記事でもシリーズ化して投稿していますのでよろしければご覧ください。
「街歩きスケッチ」を始めてから、過去の日本の画家達がどのように日本の街を描いているか、別の目で見るようになったのです。
そのような目で明治以降の日本の風景画(油彩)を見ると、西洋の風景画、特に印象派以降の絵と明らかな違いを感じるのです。私の印象を次に示します。
ですから、印象派の画家達がその明るさに驚いたという浮世絵版画、特に江戸の街を描いた浮世絵版画(広重や北斎)とは真逆の印象なのです。おそらく絵具の混色のためかもしれません。浮世絵版画に影響を受けた印象派の油彩が明るいのは皮肉です。
全ての日本人画家の風景画を見ていないのであくまで推測ですが、西欧絵画をめざした当時の洋画家は、西欧の風景に比べて日本の風景を描くのに苦労したのではないかと思います。日本の風景を描くとなぜかカラッとした空気感が出ないように思うのです。だからこそ多くの画家が、最新の絵画情報を知るためだけでなく、ヨーロッパの風景を描くために渡欧したのでしょう。
今回の佐伯祐三展で「下落合の風景画」が多く展示されていると知り、俄然見たくなりました。なぜなら、現在東京の街をスケッチしている立場から、戦前の東京の郊外がどのように描かれているのか興味あるだけでなく、ヴラマンクに叱責された直後に日本に戻り、佐伯がどのような気持ちで日本の風景と取り組もうとしたのか、どのような描き方の工夫をしたのか、そしてそれは成功したのかが知りたくなったのです。
■「下落合の風景画」の実物を見て、佐伯の工夫を感じた
1926年から1927年にかけて描いた下落合の風景画は、意外に展示数が多く16枚に及びます(目白、新橋の2枚も含む)。上で述べた私の観点で気が付いたことを下にまとめます。
下に示すいくつかの下落合風景画を使って補足説明をします。
■「下落合風景」(7)の場所でバーチャルスケッチして考えてみた
ここで突然ですが、実際に彼が選んだ下落合風景の場所にタイムスリップし、現場で「線スケッチ」することで、当時の佐伯の心境になって考えることにします。
具体的には、坂道と造成地を描いた「下落合風景」(上に示した写真の(7))を選びました。佐伯が立った場所から眺めたつもりで「線スケッチ」をした結果を図1に示します。
いかがでしょうか?
佐伯は自宅のアトリエがあった下落合および周辺を歩き回り、「ここだ!」と思ったら、迷いなくキャンバスを立てて描き始めたのでしょう。
もし私が「街歩きスケッチ」をするため当時にタイムスリップし、下落合をくまなく歩きまわったなら、私も選びたい場所と構図です。
今回「下落合風景」(写真で例示した(7)の作品)を模写して感じたことを以下にまとめます。
以上は、バーチャルスケッチを試みて感じたことですが、最後に彩色について述べたいと思います。
この節(1)の冒頭ですでに彩色の印象は述べたのですが、一言で言えば、明治初期の洋画にくらべて、ベタっとした日本の湿気を感じないということです。
その理由は、チューブから生の絵の具をそのまま塗っていること、そして生の白の絵の具を白線や白い面として意図的に配置しているためと思われます(例(1)から(10)で確かめてください)。
このため全体はヴラマンク調の暗さですが、彩色に濁りがなく、湿気を感じさせないのでしょう。
絵の具の使い方を工夫しているのは、家屋の屋根と青空の色からもわかります。和瓦の灰色は極力使わず、白っぽくするかオレンジまたは赤を多用しています。空の色では、例(10)では珍しく青空ですが、その青は日本風景画ではこれまで使われない、澄んだ濃い青緑(ターコイズブルー)を使っています。左手前に広く配された白壁と、茶系との配色が気持ち良く、日本の風景画としては珍しく抒情性を排することに成功しています。
以上、例(7)のヴァーチャルスケッチの試みにより佐伯祐三の日本の風景画について述べてきましたが、他の例をヴァーチャルスケッチしても同じ結論に達するでしょう(今回は省略しますが、山手線の高架橋を描いた(9)も、街歩きスケッチの切り取り方そのものです)。
個人的には、佐伯祐三がそのまま日本にとどまり健康を取り戻し、この風景画の路線を続けたならば、本場にも通用する独自の風景画に達したのではないかと残念に思うのです。
(その2)に続く。
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