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第三高校卒

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偏屈な京大生が社会人になってわかったこと

親愛なるK君へ 久しぶりに書いてみた。はじめに  恐らくこのnoteについて開くのは前回ぶり、たりないふたりの若林(と山里、と書くと彼は怒りそうなものだが)について書いたから数年ぐらいは経ったのであろうか。  学生時代は過去のnoteを見てもわかる通り、僕は自省的な人間であれこれ難しいことを考えていたタイプだったが、そんな人間がかれこれ社会人となり環境に順応しようと努めた結果、何を感じたのか、そろそろまとめてもいいと思う。  そもそも断っておくが、僕は自分自身のことを偏屈

    • lighthouse #4 若林の苦悩と星野源の残酷さ

      Netflixのlighthouseの4話を見ていて感じたことがある。簡単に言えば星野源と若林正恭の対談番組であるが、そこで私は星野源と若林の違いを感じた。 そこでは2人が抱えていた悩みや考えを話す場である番組ではあるのだが、星野源はいまいちどうなんだろうかという違和感を持って見ていたが、それを明確に感じることになったのが#4だ。 #4で若林は「自分が加害者であるということを人間は忘れがちである」ということを指摘する。それは、お笑いに対してあたかも寄り添っているように批評

      • 友達

        今日も一日仕事を終えて眠りに就いてる。でもどうしても寝る前に一杯やらないとな、と思って台所の白いタイルの前で僕また山崎の12年を空ける。 どこかで、人が夜ふかしするのは「今日という日に満足していないからだ」と読んだ気がするが、一日たりとも満ちたりた日はあっただろうかと思いながら、満月を見て僕はポテトチップスと一緒に流し込む。 仕事は決まって法律と通達に従って淡々とこなしながら、人々の「やっぱりキャリアは違うね」という称賛に、そんなことはないですよと言う彼の姿がある。僕はそ

        • 理論と実践(官僚としての責務を果たすために)

          今書き留めなければならないことは、自分はこの国で何を目指し何をなすべきかということである。そして、それが理論と実践が必要であることを漸く理解してきた段階であることを自覚している。 当然、物事を俯瞰して抽象的なものを抽象的にとらえる、という営みは私が人生の中で培ってきた一つの能力であることを自負している。そしてそれは紛れもない思考的土台として、畢竟私自身の人生の軌跡として遺してきたものに他ならない。 一方で実践という側面を正しく理解していたかと言われると、そうではなかったと

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        • 動的左派への批判
          4本

        記事

          僕が官僚をする理由①

          ある時、同期に言われた。「お前は傲慢に見える。偉そうに聞こえるんだ。人の話を聞くんじゃなくて、自分のフィールドに持ち込んで、誰もそんな話してないのに、気が付いたらお前の話になっている。」 実はこの手の言葉は、生まれてこの方ずっと言われてきた言葉だ。それは家族だったり、恋人だったり、友達だったり。友達でない人であっても、裏で言われていたり。改めて言われても「そうだったのか」ということもないし、「そう思われているのがつらい」ということもないが、「やはりそうなんだな」という再確認

          僕が官僚をする理由①

          個人の権利・自由保護を謳う法律家や活動家のような人間達が看過できていない自己矛盾について

          情けない大人を見ることが増えたことを、苦々しくおもうしがない官僚である。 さて、昨今見受けられるように、自己主張できる空間は拡大していき、文字通りバーチャルな世界でも可能となってきている。人々は意見を何の制約もなく、時には発言への責任すらも捨て去ってしまう状態で主張する権限すら得てきているのが現状である。 現代においては相当数の人間が行っている他者への自己表現であるが、今回は国家権力に対する不作為、とりわけ個人の権利保護という文脈において行われる批判にフォーカスを当てて考

          個人の権利・自由保護を謳う法律家や活動家のような人間達が看過できていない自己矛盾について

          抱負

          どんなにこの国がダメでも僕はできる限り命を賭して良くしたいと心の底から願う、それが官僚の矜持だろうと。どれだけ愚民に叩かれようとも、デマゴーグやソフィストに勝手なことを言われても、兎にも角にも祖国のために働いて少しでも良くしようと努めることが課せられた天命であると信ずる。

          教育における演繹と帰納

          しがない官僚は、現在、『統計学を哲学する』という大塚淳氏の本を読みながら、ふと感じたことがあるので忘れない程度にメモをしておこうと思う。 私は本書を読んでいるときに一番思ったのが、そんなことは最初に教えてくれればよかったのに、という気持ちである。私にとってはこれはよくある話である。 例えば法学部における入門科目や入門書を見ると、必ずと言って具体的事象から入ろうとする。例えば、こんな身近なところに法律がありますよ、と言った具合である。 ただ、私に言わせればそんなことはどう

          教育における演繹と帰納

          Creepy Nutsの魅力

          ①魅力 元々何者でもない「たりないふたり」だったR指定、DJ松永がラッパーとDJとして成長し、メジャーデビューして自己を肯定していく様が楽曲に表現されているが、その変化が自分の精神的な成長とちょうど重なって自分の人生をリアルタイムで表現してくれる。 ②音楽の魅力 強烈なR指定の個人的なエピソードにもかかわらず、幅広い人が共感できる歌詞と、変な個性的にも関わらずなぜ書き着心地の良いビート。一瞬自己を蔑むように見えて、隠しきれない強い自意識を滲ませていた初期から、セルフボーステ

          Creepy Nutsの魅力

          日本では、どうして?という問いがその人を生きづらくする

          大それたことをいうつもりではない。 これは、子供の時から感じていた世の中に対する違和感の一つの話である。 オードリーのオールナイトニッポンのうち、2015年6月6日西加奈子がゲストの回である。 彼女の話はあまりにも言いえて妙である。彼女はクラスの教室に不良でもないのに「目つきの悪い子」がいたという。彼女に言わせれば、そんな子は避けれたはずの事にも正面からぶつかってしまう、まっすぐな子らしい。 ある時、西加奈子は中学校の同級生にその目つきの悪い子に勉強を教えていた。その

          日本では、どうして?という問いがその人を生きづらくする

          明日のたりないふたり

          6月6日夜 そういえば、私は友達が多くない。友達よりも私を嫌い(苦手)な人の方が多いことは確かである。 最近社会に出て思い出した。私は小学校から高校まで特に周りとなじめることがなかった。もちろん、友達と呼べる人間は僅かながらいるけれども、それはいわゆる「馴染む」という状態からはかけ離れていただろう。 特に中学時代は馴染めなかった。中学入試をして入ったそこは大半が小学校からの上がりで、デブでクソ生意気な空気の読めない私は標的にされた。登校すれば机がひっくり返っていたり、ロ

          明日のたりないふたり

          インスタ映えやTikTokの表現が低俗な理由

          過激なことを言うようでやはりこれ事実であろう。 感性が重要であり個性が重視されること、そして非合理なものに神髄を見ようとすることと、その人の感性が等しく認められることは全く違う話である。いや、正確に言うと感性というものをきちんと理解していないうえで語る「感性」は、自らでのものであってもむやみに肯定しない方がよい。 簡単に言えば「美しさ」は表現する側だけでなく、感じ取る側にも努力が必要だという話である。 どんなものでもよいが、表現者が伝えているのは「感動」である。詩や和歌

          インスタ映えやTikTokの表現が低俗な理由

          『ナナメの夕暮れ』若林正恭

          私は久しぶりにこの手の本を読んだ。 「この手の本」というのは、いわゆる芸能人が書くような自己啓発的な内容、ウケを狙った内容、自らのセンスを見せつけるような内容のことである。 もちろん、そうではないから読後感を書こうとしているのだが、こうなったにはきっかけがある。 私は先日、羽生善治の『決断力』を読んだ。なんだ、こういうのは飽き飽きするな、と思いながら読んでみたのだが、いかんせん、素晴らしいことを書いている。簡単に言えば「直感」と「決断力」についてであるが、深くは入らない

          『ナナメの夕暮れ』若林正恭

          「価値判断」という言葉の軽さ

          理性の限界について私は述べ続けていたが、福田恒存の『保守とは何か』(1946年)をみていただこう。 私が今から言いたいのは、理性によって現実を理解できると思っている人への批判を福田恒存に代弁してもらう。そのうえで、理性に限界があると理解している人でさえも、その捉え方を誤ることで理性の罠に嵌ることをお伝えしようと思う。 この手の話は妙にけだるい。読める人は読まなくてもわかるだろうし、読めない人には伝わらないであろう。note自体自己満であるから、それはいいのだが、やはり物事

          「価値判断」という言葉の軽さ

          「わきまえない」の根本的問題:動的左派にこそ読んでほしい具体的反論

          前回はだいぶ、ゆるく書いたしがない京大生である。 全く反響はない。なぜなら、あの記事にたどり着く人には2種類考えられる。一つは記事の批判の対象となる人。もう一つは「いやそもそもわきまえるのがいいこととしている”構造”が問題なんだよ」「男性社会の構造に無意識に取り込まれている」みたいな人である。そういう人は前回の記事を読んで「んなことはわかってんだよ!」と言いたいのだろう。 さてこの方は以下の記事をご覧になったようだ。 この方の記事を読んでみると、恐らく色々とご本人なりに

          「わきまえない」の根本的問題:動的左派にこそ読んでほしい具体的反論

          「わきまえない女」の話が変な方向に~議論ができない人②~

          この問題は、愚かでしたね。森喜朗の居酒屋のノリなのはいかんでしょう。公人で公的な場の発言とは思えないというのは事実でしょう。オリンピックもどうなることやら。 まあそれはいいのですが、話が変な方向に行きましたね。森喜朗の発言が問題になったのは、わきまえていないのは「女」だからだという話でした。そりゃまあ叩かれるでしょうと。しかし今の雰囲気を見てると「わきまえない女」と称してネットで盛り上がってますね。声をあげてるみたいな話なんでしょうか。 森喜朗は叩かれて当然なのでそこにい

          「わきまえない女」の話が変な方向に~議論ができない人②~