教育における演繹と帰納

しがない官僚は、現在、『統計学を哲学する』という大塚淳氏の本を読みながら、ふと感じたことがあるので忘れない程度にメモをしておこうと思う。

私は本書を読んでいるときに一番思ったのが、そんなことは最初に教えてくれればよかったのに、という気持ちである。私にとってはこれはよくある話である。

例えば法学部における入門科目や入門書を見ると、必ずと言って具体的事象から入ろうとする。例えば、こんな身近なところに法律がありますよ、と言った具合である。

ただ、私に言わせればそんなことはどうでもよく、まず初めに「法とは何か」という命題について説明を求めたくなるのが自然なのではないかと思っている。

ある程度、何か体系だったものが出来上がる際、必ずそこには前提があって、そこにこそ価値やバイアスの本質が出てくる。であるならば、最初にそれを教えてくれるのが筋ではないのか。

『統計学を哲学する』を読んで最初に思ったのが、学校教育を受けた時の統計の扱いだった。振り返ってみれば大体そうなのではないかと思うのだが、XとYという二つの変数(しかも具体的にリンゴの価格と個数といった感じに)を実際の方眼紙にプロットさせ、直線を結ぶというプロセスを経て比例を勉強する。相関係数もそうだ。プロットさせるところから話が始まるのだ。

こうやって話していて思い出したのが、苦手な英語だった。I like a dog.から英語の教科書が始まったという記憶なのだが、後々大学受験で真剣に英語を勉強始めるとSVOの解説がされ、「いや最初に言ってくれよ」となったのを思い出す。確かに中1か2で文法を教わるわけだが、語学という概念から文法の位置付けという意味での説明はなく、ただ実際の文章の文法の類型を分類するという、やはり具体→抽象のプロセスだったと記憶している。

京都大学も当時散々文句を言った気がするが、なぜか法理学(法哲学)は3回生にならないと取れない。私からすれば、政治思想史と法理学は何よりも先に1回生の時に一番教えてもらいたかったと今でも口惜しい。独学だけで哲学史を体形立てるほど天才になれなかった私の力量不足であることは確かであるが、最初に体系を教えてもらうことは独学の質を上げたのではないかという気もする(純粋な固定概念のない思考が育ったといえば聞こえはいいが)。

ただ、こう言った話になると必ずと言って出てくるのが、やはりいきなり抽象論で来られてもわからないという話である。身近な例を出すことで親しみやすく、などという説明が入門書を見ると大概載っているものだ。

確かに周りの優秀な法曹(の卵)達に聞いてみると、「各論をやっているうちに体系がわかってきた」というのはあるようだ。振り返ってみると、この感覚は個人的にも否定し難い部分があるのは事実だ。例えば知識0から始まった受験勉強がそうだった。

そこで、その時の自分の思考回路をよくよく思い出して考えると以下の順番だったと思う。

やらねらばならないという必要性に駆られる→とりあえず勉強する→どうしてという疑問が出る→回答を得る

これがより高次に抽象的に駆け上がっていく感じだ。では逆に、抽象論から入る時はどういったものなのか。

問題意識がある→何の分野なのか探す→その分野の入門書を見る→説明が足りず一切の消化不良→前提を教えてくれるものを探す→入門書含め具体的に入っていく

つまり、最初に何を知りたいか(何に向かうか)が明確であるから、何を知ればいいのかということが予めわかっている。むしろその問題に向き合う時のバイアスを予め理解しておきたい、というのが抽象論から入る理由なのだ。

こうやって考えると、どちらから入っても最終的には体系的に理解する方向に進んでいるので、どちらであってもいいのかも知れないが、より専門的だったり成熟した状態であると、抽象論から入る方が効率的なのかもしれない。

一方で、個人的な話ではあるが、私はどうやらせっかちな人間だということを先日気意識したのだ。というのも、本を読んでいるうちに出てきた『どういうこと?説明になってないのでは?』という疑問に対してメモを書き込むのだが、きちんとした本であればあるほどその答えを後で書いてあることが多いのだ。ただ、そこで自分自身で納得した説明ができないと止まってしまうのが日常である。

まず一旦読んでみなさいよとも思うのだが、ちゃんと全部説明してくれよという思いに駆られる。ある友人からは「君は人の言葉をclarifyするというところに誠実さを感じるが、もう少し感情を聞いてやっても良いじゃないか」と言われたことがあるが、そういうところにも自分が出てしまっているのだろうと思うのだ。


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