インスタ映えやTikTokの表現が低俗な理由

過激なことを言うようでやはりこれ事実であろう。

感性が重要であり個性が重視されること、そして非合理なものに神髄を見ようとすることと、その人の感性が等しく認められることは全く違う話である。いや、正確に言うと感性というものをきちんと理解していないうえで語る「感性」は、自らでのものであってもむやみに肯定しない方がよい。

簡単に言えば「美しさ」は表現する側だけでなく、感じ取る側にも努力が必要だという話である。

どんなものでもよいが、表現者が伝えているのは「感動」である。詩や和歌、絵や音楽が表現しているのは表現者の「感性」であり、言葉や音階それ自体ではない。

柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺

という有名な句がある。ただこれは「柿」や「法隆寺」といった「物」をただ言葉で表現しているのではない。正岡子規が表現しているのは、これを見た時の彼自身の感動である。この感動を五七五という限られた文字で表現しきったのであるから、名作なのである。我々がこれに感動するのは、この情景を見た正岡子規自身の「感動」に触れるからである。情景そのものではない。

小林秀雄はこれを、「感情という移りゆくものに形を与える」と表現をする。確かに悲しみや美しさといった感情は時がたてば忘れてしまう。しかしそれを「もの」として表現することで、いつでもそれに触れることができるのだ。確かに絵や詩という「形」にすればその感動は時代を超えて残っていく。

ということは、である。逆に表現者が閉じ込めた感性を感じるためには、我々鑑賞者も表現された「もの」を通じて、表現者の感動に迫らねばならぬのだ。

これを努力と言わずしてなんという。つまり読み手や聞き手にも、作者の感動を知るための鍛錬が必要なのである。

題に戻ろう。昨今の「映え」には表現としての深みがあるだろうか。その表現者にしか見えない世界が、「もの」から見えるだろうか。

表現者には伝えたいものがあるわけでもなく、表現の受け手は感じ取ろうとする努力すらない。むろん表現物自体がそのようでは無理だろう。

では、表現者は何のために写真を撮るのか。それは「人に見せる」ためである。人に伝わるということは、それだけ感性の深さは浅いということだ。マクドナルドがおいしいというのと、手間暇かけられた煮物がおいしいというのでは違うというのと同じである。

そうであるから、表現者は「ハンバーガー」を量産するのであり、「消費者」はそれを「うまい、うまい」と言って食べるのである。

誰も煮物は食べないし、そのうち煮物を作ることができる人間自体がいなくなるだろう。その時、「煮物の方がおいしい」とでもいう人がいれば、「好き嫌いは人それぞれだからさ」と返しながらも、誰もがハンバーガーを食べる世界が広がっているのだろう。

人それぞれだと言って解放された人間がたどり着くのは、同じような人間たちである。私はこの文章にタイトルをつけるなら「美の大衆化」とでもいうべきであろう。


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