個人の権利・自由保護を謳う法律家や活動家のような人間達が看過できていない自己矛盾について

情けない大人を見ることが増えたことを、苦々しくおもうしがない官僚である。

さて、昨今見受けられるように、自己主張できる空間は拡大していき、文字通りバーチャルな世界でも可能となってきている。人々は意見を何の制約もなく、時には発言への責任すらも捨て去ってしまう状態で主張する権限すら得てきているのが現状である。

現代においては相当数の人間が行っている他者への自己表現であるが、今回は国家権力に対する不作為、とりわけ個人の権利保護という文脈において行われる批判にフォーカスを当てて考えることとしよう。そのことは、結果としては自己承認のための自己表現に躍起にある現代人の構造を捉える一助になろう。また、この問題は新自由主義をはじめとした経済的な文脈でも同様のことが言えよう。というのも、この問題は個人と国家を規定している一つの根源的な側面を抱えているからに他ならない。

ただ、この話は何も目新しい話ではなく、既に使い古されているものだ。一方で、この使い古された古典的思想が未だに浸透しておらず、毎回無批判・無責任に自己主張を繰り広げる現代日本人を見ると辟易してくするので、いったんこの段階で説明を果たしておきたい。

さて、個人の権利保護を訴える人間たちは往々にして他者及び国家権力による侵害を批判する。そして彼らがとる手法というのは法的保障を与えようとすること、あるいは社会的啓蒙活動である。

法的保障を与えるということは、法律で規定するということと同義であるから、当然に他者や国家権力の侵害から個人を法律で保障するということであるが、なぜ法律で保障することができるのか。それはひとえに国家による権力行使に他ならない。他者による侵害は当然に想定されるが、国家権力による侵害を手続法も含め国家を縛ることができるのは、国家が自らの権力によって自らの行為を制限しているというところに正当性があるからに他ならない。

例えば、イスラエルとパレスチナに見られるように、他国の侵略によって自国民が蹂躙されることについては自国の法律として違法とすることはできても、他国を縛ることができるのは他国自身の法律でしかない、というところが端的にその事実を表現している。

そして当然に自然権の話に移るわけだが、しかし、ここで勘違いしてもらいたくないのが、今ここで話したい内容というのは、権利といった概念を国家権力によって規定をしてもらおうとする人間たちの論理的脆弱性を説明したいのであって、そこで規定させようと望む自由や権利が一体何を指しているのかを改めてクラリファイをするということがここでの重要なポイントになる。繰り返しになるが、ここは自説を述べたいわけではなく、単純に論理的に矛盾しているということを説明するということに過ぎない。

さて、回りくどいことを言ったようだが、本題に入ろう。国家権力によって個人の権利を保障させようとする人間たちが、なぜ国家に保障させようとするのかと言えば、まず「国家の役割として個人を保障すべき」であり、「個人にとって権利は侵害されてはならないもの」だからと考えているからに他ならない。

個人の権利・自由というのは他人からも国家からも「侵害」されると表現されていることからわかるように、彼らの前提には個人は個人で完結する形でアプリオリに権利・自由を保持しているという考えである。つまり、実際にどうかというところを置いておくと、概念上、いわゆるイデアとしての「権利・自由」を干渉されるものなく各個人に見出していることがよくわかる。であるならば、国家が保障するというのがどういうことかと言えば、想定した国家権力は単なる物理的強制力に他ならない。他者からの侵害を物理的にとめること、また国家による物理的な侵害行為をとめること、これが彼らの前提となる国家や権利・自由の定義になる。ここでのポイントは国家権力そのものはあくまで無価値なものであるという点だ。本来的な価値は個人に存在するのであり、その価値実現のために国家が存在するという、いわゆる機械論的な国家像、そして方法論的個人主義に他ならない。

しかし、この時1つの問題が生じる。それは先述した国家による保障の持つ価値についてである。彼らが描いている国家には意味を見出していないということだったが、そうであるならば国家による保障は個人の自由・権利には本質的には全く関係のない話になる。

しかし、彼らが主張するのは、表現の自由における憲法解釈と同様に、物理的・外的圧力をかけられていることは、内的な自由が発揮できない状態と等しいという論理である。もう一度丁寧に言うと、彼らが外的な空間は内的な思想や信条といった個人で完結するようなイデアの世界においても影響を”及ぼし得る”と思っているから、国家による保障を求めているのである。

ここでもう一度前提を見てみよう。彼らはもともと、個人の自由や権利を内在的に完結するものとして、形而上学的に定義した。そして同時に、外的なものそのものに自由や権利といった価値を見出さないということで、明確に分離させたのだ。しかし、彼ら自身が”そう”述べているように、個人の自由や権利といったものは、”外的な空間にて発揮してこそ初めて価値を帯びるものである”と思っているからこそ、国家による保障を重要視し、不可欠になってくるのである。ここに彼ら自身の矛盾が生じてくるのである。

そもそも国家による保障行為そのものに価値を見出していない状態にもかかわらず、国家の保障がなければ担保されない自由や権利といったものが、自己完結的に定義されているということ自体がそもそも不自然なのである。これは物心二元論であったり、精神学でも認識論でも同様であろうが、外的空間と内的空間といったような二元的世界観を現実的な政治空間に落とし込むことによって発生する、よくある話に他ならない。

もし、彼らが当初想定していたような厳密な二元的世界観に基づくのであれば、我々の持つ自由や権利というものはどれだけ外的な世界での介入が行われようとも、我々の「(彼らの定義するところの)精神活動」とは何らかかわりがなく、その崇高な活動は永続的に行われる営みでなければならない。

そもそも、自由や権利を外的に発揮することを想定している時点で、彼らの想定したそれよりもはるかに射程が広く、そして極めて政治的な意味合いを帯びていることがわかるだろう。つまり、彼らは内面的な「崇高」とされる理念を笠に着つつ、やっていることは「世俗的」な政治的活動に過ぎない。

更に、ここで一つ看過してはならない問題が国家の位置づけである。国家は無価値的な暴力装置が想定されており、それは方法論的個人主義に基づいた人工物であり、そこに価値を吹き込むのは各個人であるということだった。しかし、当然に政治的行為、つまり外的空間に働きかける行為において国家の存在は不可欠であることは自明である。もう少し言い換えれば、国家の保障によってはじめて自由や権利が保障されるのであるから、国家を無価値なものであるとして定義することには前提として無理があったのだ。

さて、私がここから言いたいのは厳密な二元論を志向するのか、有機的個人を想定すべきなのか、ということではない。端的に言えば、トクヴィル的な指摘をここで行っておきたいのである。

今回やり玉に挙げたような彼らは、本来であれば古典的な自由主義的価値観を共有し、それを支持する人間達だったはずだ。しかし、彼らがやっている行為というのは実質的に積極的自由に傾倒してきていることを見てきた。つまり、現実として国家によらず自らの意志と責任によって自由や権利を行使するだけの力が個人にはないという状況に陥っているのではないのか。

歴史よりもはるかに身体的自由は確保されており、冒頭に述べたような表現を行う空間は拡大を見せてきた現代において、我々は個人として国家によって定義されなければ立っていられないほど脆弱になり果ててしまっていることを見逃してはならない。

身体的自由のなかった時代に行動を起こしてきた人たちは、果たして本当に自由を行使していたなかったのだろうか。精神的自由を発揮していなかったのだろうか。厳密な二元論の道を進むにしても、闘い抜くほどの力は現代人には残されていない。

これは冒頭に述べた新自由主義的経済においても同様のことが言える。国家の介入を嫌っているが、これは人為的な作為を排除して見えざる手にゆだねている行為のように見えて、行動の規範を我々自身から手放したということに過ぎない。つまり一つのシステムの一部に組み込まれることによって、安寧を享受しようとする、まさにパターナリスティックな権力の庇護下に個人を置くという一連の流れに位置づけられるのではないだろうか。

このように、外的な基礎付けがないとあまりにも脆い現代人の存在は繰り返し歴史において指摘をされてきたところである。もし仮に、二元論的立場に則り個人の内在的価値に期待をしたいのであれば、しっかりと自らの足で立つ他ないのであるが、そのような「超人」を期待するのはあまりにも酷であるし、あまりにも自分勝手な主張であることはここに申し添えて今回は筆をおくこととしたい。

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