lighthouse #4 若林の苦悩と星野源の残酷さ

Netflixのlighthouseの4話を見ていて感じたことがある。簡単に言えば星野源と若林正恭の対談番組であるが、そこで私は星野源と若林の違いを感じた。

そこでは2人が抱えていた悩みや考えを話す場である番組ではあるのだが、星野源はいまいちどうなんだろうかという違和感を持って見ていたが、それを明確に感じることになったのが#4だ。

#4で若林は「自分が加害者であるということを人間は忘れがちである」ということを指摘する。それは、お笑いに対してあたかも寄り添っているように批評する人たちというのは、自分達が認定した「お笑い」以外を認めていないという不寛容さに注目したものだった。
彼は「自分もそうかもしれないけれど」と留保をつけながら、そう言ったのだ。

これは常々言われてきた、明確な基準や共通見解がなくなってきたという話と同義である。価値観というのは人それぞれだよね、という話になると、どうしてもそことバッティングするのは必然である。例えば多様性は大事だと主張する人は、多様性を否定するような人がいた時にそれを多様性の一部として抱擁する覚悟はあるのだろうか。そこを譲れない時には、どうして譲れないのか説明できるのだろうか。

「お笑い」のくだりもそうで、お笑いという既存の価値を確保するためには何かを否定する他ない。若林は価値を否定するようなお笑いが嫌いで、自身の定義するお笑いを実現したいと考えているものの、マチズモ(マッチョイズム)がないと勝てないジレンマを告白する。それは、自身が多様性のお笑いを実現するという時の「実現」という行為が多様性を排除するものだからである。究極的にそれは星野源が後で指摘するように「自分自身でかみしめる喜び」に最も価値を置くのであれば、他人と共有できるかどうかはどうでもいいのである。

番組内である人の悩みが紹介された。「本当はメタル音楽が好きだが、茶化されたりするので本当の趣味を言えない」というものだった。星野源は先述の1人の時間の価値を説きながら、「そうやって他人の好きなものを茶化す人間は友達としての価値がない」と言って捨てる。

この彼のスタンスは#1にも出ているように思われる。同様に紹介された悩みが「嫌われたくないので本当の気持ちを他人に言えない」というものだった。星野源は「言えない気持ちをSNSに書き連ねることは決して本当の気持ちではない」「嫌われたくないという気持ちも自分の本当の気持ちだし大切にするべきだ」という。

彼のこれらの意見は至極正論であるということを私は認める。しかし、彼の言っていることを実現できる人間はどれだけいるのだろうか。

結局彼らはそういう悩みを吐露することによって収入を得ているわけだが、そういったものを表現物として消化できるだけの才能と地位と余裕を持つ人間がどれだけいるのだろうか。

他人から嫌われても構わないほど熱中できることそのものが才能であり、それを普遍的に共有する力がここまであるというのは類稀なる才能に他ならない。だからこそトップアーティストなのである。

一方で、彼らの行為は多様性の枠組みに入る価値観の種類を増やそうとする極めて暴力的行為と言える。彼らによって感化された人々は、自分達の価値を不可逆にすることはできない。つまり、自分が世間がずれていたり、苦しんでいるところを言語化したところで、それを力に生きていくだけの力は全員にはないし、自覚的になることで死ぬ人だって出てくるのだ。そう言った行為の表現は芸術として当然にあるわけだし、素晴らしいものではあるが、そこへの権力性、つまり政治的行為であるということを忘れてはならない(政治的な倫理としての覚悟を担うべき)と私は考える。

そう言った視点を忘れることは、最初に述べた若林の言葉通り、「自分たちが加害者である」という事実を覆い隠すことに等しい。

星野源は#3で「同じことを繰り返せる人と、同じことばかりしていたら死んでしまう人がいる」「それはどちらもそれでいい」と言っていた。これは多様なように見えて、極めて残酷な結論である。人間はほとんどが同じことを繰り返して生きているし、だからこそそういう価値観が支配的なのだ。彼の言葉でいうところの、新しい居場所を作り出し続けられる人というのはそうはいないのだ。

そうなった時、人は一体どれに憧れるのだろうか。同じことを繰り返す人間に甘んじることができようか。繰り返さないで飯が食えるなら誰だってそうするのだ。そうでなければ社会は回らないのだ。星野源は#4で自分の音楽が1番だと言ったが、自分の価値(表現)が1番だと胸を張って言いつづけられる人間はどれだけいるのか。

自分たちの悩みを表現として表出するのは芸術家の基本である。一方で、それを番組にしたり誰かにわかってもらおうとする、あるいはそう言った価値観を世論に埋め込んでいく、そう言った行為は極めて貴方がたが嫌っていた政治的な支配行為に他ならない。だからそう言った意見は本当の意味でどん底にいる人からすれば何の価値もない欺瞞に聞こえるのだ。

「メタル音楽という趣味が他人に言えない」人に向かって「茶化すやつは友達じゃないから気にしなくていい」と言った言葉は、どれだけ残酷だったのだろうか。そんなことできたら彼女はそんな悩みを持たなかったのではないだろうか。

欺瞞はつきものではある。それは現実というものに向き合えばこそである。そういう意味では芸術家は夢想家で会ってもいいと思う。ただ現実の普通の人間にそれを求めるのはあまりにも酷ではないだろうか。それこそが独善的なのである。

#2で言っていたように、「クラスの隅っこにいる奴が陽キャにオーバーライドするような笑いは本質的に何も変わってないのでやりたくない」という視点を持てる若林は、同じことを言っていたのだろうか。私はそうは思わない。真意は不明だが、彼は彼女に対して少なからずの同情の念は持っていたのではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?