偏屈な京大生が社会人になってわかったこと

親愛なるK君へ

久しぶりに書いてみた。

はじめに

 恐らくこのnoteについて開くのは前回ぶり、たりないふたりの若林(と山里、と書くと彼は怒りそうなものだが)について書いたから数年ぐらいは経ったのであろうか。
 学生時代は過去のnoteを見てもわかる通り、僕は自省的な人間であれこれ難しいことを考えていたタイプだったが、そんな人間がかれこれ社会人となり環境に順応しようと努めた結果、何を感じたのか、そろそろまとめてもいいと思う。
 そもそも断っておくが、僕は自分自身のことを偏屈だとも思っていないし、社会に馴染めていないとも思っていない。ただ、どうやら私を理解してくれる人は少なく、その数少ない友人から「君の話は難しいから整理してほしい」と言われてしまった。しかしそれでもなお、辛抱強く私を理解しようと努めるその友人のために、書き始めたラブレターがこのnoteである。彼に宛てたラブレターである以上、前提知識を飛ばして書くから意味が分からなかったり、文体が読みにくかったり、必ずしも読んでくれる人のためになるとも限らない。それでも、少しでもこのnoteを読んで、共感したり、こんなやつも生きているのかと、どこか救われた気持ちになったのだとしたら、 このnoteは僕の予期した倍以上の波及効果があったということだ。
 ちなみに断っておくが、僕の職業は公務員だったりする。当然、組織の意見とは関係ないし、むしろ僕みたいな端パイ(比喩表現)を全体だと思われても困る。もし、僕自身の言葉をカテゴライズして理解しようとする人はきっと言葉が届くとも思わないし、そもそも友人に宛てたラブレターをのぞき見しておいて何かを言われる筋合いもない。
 僕の仲の良い友人たちは、概ね社会に馴染めずに会社でよく上司に怒られたりして生きづらそうだ。でも、僕は原因をなんとなくつかめたような気がしている。きっとそれは、この国がよくならないことと同じなんだと思う。社会で働いてみてわかったこと、それは、友人と話したこと、上司や先輩と話したこと、親と話したこと、好きな子と話したこと、そんな経験を経て、議論し、読書し、内省した結果を、少し今後もまとめたいと思う。
 きっとこれから僕の考えは変わるだろうし、ここに書いた言葉にどれだけ正直に生きられるかはわからない。でも、今この瞬間に感じていることは即時的に流れていってしまうわけだし、言葉を使ってしっかりと感情を新鮮なまま閉じ込める必要がある。今のところ、この前文しか書いていないわけだが、文章の構造としては過去→未来、具体→抽象、と行った方向を目指している。とはいえ、おもったまま気持ちを書き連ねるので、そうもいかないかもしれない。
 再度断っておくが、これは友人に宛てたラブレターである。彼も生きづらそうだが、僕は君に救われてきた。生を受けた以上、一緒にこの世界を泳いでいく必要がある。いつか君と、でも独りで、彼岸を目指していたいと願う。

社会人として仕事をする時に求められること

社会人の環境

 僕は仕事ができるか、と言われるときっとそういうわけでもないのだろう。もとから処理は早くはないし、見落としもない方ではない。やってしまう。きっとそれを指して、「学歴と仕事ができるかは関係ない」とよく言われているのだと思う。
 公務員は巷で言われているように、無限に仕事が降ってくる。自分から仕事を作らなくても、とにかく関係各所から仕事を振られ続け、ひたすら無心に捌き続ける。もちろんデスクワークだけでなく、会議場をセッティングしたり、資料を印刷して持ち込んだりと肉体労働もある。
 そう考えると、確かに普通の会社とも量は違えど、(特に下っ端は)そこまで仕事自体に大きな差はないのかもしれない。ただ、この量の違いが、より僕を生きづらくさせるさせる一つの外因かもしれない。それは、特に公務員という社会で固定化しやすい(後述)、というだけであって、仕事そのものに多くに差はない(上司が大臣になっただけ、なった「だけ」というかは人次第だが、)わけだから、そこまで大きく変わるものでもないし、むしろ企業の方が蔓延しているし、全体的に無意識になっていることだとも思う。

仕事ができる

 仕事を処理するというのは、目指すべき目標(依頼)があり、それに向けて必要なことを、限られたタイムスケジュールの中でミスなくこなしていく、ことである。これは当然ながらどの業種でも当てはまる(大学の研究職は違うのだと思う)。そして、これを短時間、かつ正確にこなしていける人を「仕事ができる」として評価されることとなる。そういう意味では公務員は非常に仕事ができる人は多いと思う。というのも、莫大な量(一日何百通ともメールが来るが、100通ぐらいは意味のあるメールではないのか)の作業が発生しており、それが公表されたり偉い人に見せる、ということになるのだからミスは許されない。そういう意味では、周りの人たちは「仕事ができる」人は多いと言えるだろう。

仕事ができないと感じる瞬間

 さて、自己評価として仕事ができる方ではない、と評したがそれは上記の基準に照らし合わせて、ということである。こなすためには、上記書いた通り、①必要なこと把握し、②スケジュール感をつかみながら、③ミスなくこなせればよい。では最も難しい点は何かというと、①の必要なことを把握することである。僕はそれがどうやらできないらしい。そもそも、必要なことを把握できていなかった場合、タイムスケジュールは追加作業で崩れてしまうし、必要じゃないと思ってこだわっていない部分もミスとして認識されてしまうこととなる。逆に言えば、①さえ決まっていれば②、③はおのずと決まってくる話ではあるのだ。うっかりミス(タイポ)等はどんなに注意してもあるわけだが、そのあたりは努力しても伸びる余地は少ないし、本当に気を付けないといけないものは上司も含め何重にも確認する。だから、一番大事なのか仕事において「必要なこと」を理解することだ。
 ここまでは何ら不思議なことはないし、巷においてある仕事術的なカラフルな本にでも書いてありそうなことである。異論がある人も少ないように感じる。ただ、最も大事なことは仕事において「必要なこと」とは何か、ということである。

仕事において「必要なこと」とは何か

何にとって必要なのか

 仕事というのは必ず目標がある。俗にいう、To beとAs isというものだろうが、こんなことを言っても何の意味もない。なぜなら目標と現状を把握すれば自然と必要なことが決まるからだ。つまり、最も重要なポイントは、目標と現状の設定にある。そして、その設定は誰がするのだろうか。 

誰にとって必要なのか

 まず、現状の設定についていえば、典型的な組織であれば、最も現状に精通しているのは担当者であり上司ではない。そのため、As isの設定権は基本的に部下にあると言える。
 では目標はどうだろうか。ある案件があったとき、部下としてまず考えることは一体何だろうか。第一に考えることは、「上司に報告・連絡・相談をした方がいいのだろうか」ということではないだろうか。なぜかと言えば、「責任は上司にある」からだ。何か問題が発生した時に責任を負うのは上司であるから、まず上司に指示を仰いだり情報を共有する。その上で、処理するという仕組みになっているのが基本なように思われる。
 では、部下はどのように行動するが合理的か。それは、上司が考えていることを先読みしたり、上司だったらこのように判断するだろうと予測を立ててあらかじめ行動していくことである。なぜなら、最終的には上司の了解を取らなければならないわけで、上司の了解が得られなければやってきた作業は無に帰すし、問題が発生した場合は上司としても言われたことを無視されたわけで、責任は取りたくないと思うだろう。
 ここで最初の問に戻れば、目標と現状の設定は誰が行うのかと言えば、それは少なくとも目標についていえば自分の上司になる。今後の話のためにもっと正確に言うと、「自分の上司ならこうするであろうということを踏まえて、自分自身が設定する」ということになる。そこが固まれば自然と何が「必要なこと」なのかは決まってくる。
 ここまでの話を聞くと、恐らくだが「そんなはずはない」という意見が聞こえてくる。実際、部下が上司と議論をすることはよくある光景だ。案件を上げるときに、自分で目標を立てて方針を説明すると、上司の考えとは相反する場合は必ず議論になり、その後決着が着く。どこの会社でもこういうことは珍しいとも思えない。
 むしろ昨今求められているのは、自分で考える力であって上司のいいなりになるわけではない、というものである。むしろ自分の意見を通す力であって、それを上司に説明して了解を得る。その上で、案件を進めていく、ということになるのだろう。
 では、やはり「必要なこと」の設定権は、究極的に言えば自分自身にあるのだろうか。

「自分で考えろ」とは

 だた、「自分で考える」という行為は、それは本当に自分自身で考えていることなのだろうか。というのも、基本的には上司に説明をしなければならないわけで、理解できるような内容でないと了解は得られない。つまり、自分で考えて上げたものを、上司を説得して了を出しているという時点で、上司のフィールドに乗り、その上で内容を他人に共役可能な次元まで落ちていると言わざるを得ない。つまりどういうことか、下記例を見てみよう。

ある社員がAという主力商品よりもBという新商品の方が自社にとってよい売り上げをもたらすということを、他社等のデータを使って上司に説明したとする。その際、上司は「リスクが大きい」として反対したが、社員はB生産、失敗コストを算出し、Aという商品との販売見込みを比較して、上司を納得させた。

私が思うに、上記例は自分で考えた模範例だと、一般的に解されることは想像に難くない。しかし、ここに大きな問題が隠されている。それは、本当のところ、目標を自分で設定していない、という不快な真実である。この問題点を①「リスクが大きい」という上司の発言と、②データという客観的な指標を使った説得、の2つで考えてみよう。つまり、説得の「土俵」と「やり方」の2段階にわたる。

説明時の「土俵」と「やり方」

 「リスクが大きい」という言葉自体は何ら不思議ではない、と多くの人が思っているかもしれない。だからこそ社員は、「リスクが大きくない」として、それを論証するためのデータ集めをしたわけだ。しかし、「リスクが大きくない」とはどういうことだろうか。
 そもそも、リスクというのは何だろうか。どこからがリスクがあって、どこからがリスクがないのだろうか。これは、上記の例に照らして言えば「上司がリスクがあると言えばある」し「上司がないと言えばない」ということになる。つまり、この構図は
・自身で目標を利益率に設定したところ
・上司からリスクという目標を追加で設定させられ、
・その上で客観的なデータが必要だと判断して準備をした
ということであって、目標そのものは自分自身で設定したわけではないし、むしろそのやり方に裁量が認められていた、ということになる。
 利益率が高い、ということを自分自身で設定しているじゃないか、という人もいるかもしれないが、そもそも利益率に対する反論としてリスクが挙げられている以上、両者は並列のものとして認識されており、どちらも突破しなければならないものとして、再設定されている。利益率のみ目標に設定した場合(≒利益率にプライオリティを設定した場合)と利益率∩リスクを目標にした場合では、明らかに「必要なもの」は変わってくる。むしろ、その社員も「リスクも考えろ、というのであれば最初から別のCという商品を進めていたのに」ということだってあり得る。
 このように、上司への説明責任が発生する場合、基本的には上司に「土俵」を設定させられたうえで、その「やり方」に裁量があることがほとんどである。先述した「自分で考えろ」というは、厳密に言えば「上司の設定した土俵の上で、最善の「やり方」を自分で考えろ」ということになる。それは、本当の意味で自分で考えていることなのだろうか。上司にとってはありがたい部下であることに変わりはないが、果たして自分の手足となっていることに変わりはない。

目標の連鎖とその現実

 ではその上司はどうやってその土俵を決めているのだろうか。それは当然その上の上司である。土俵の土俵が決まっているのだ。その連鎖が仕事の目標を定めているということになる。
 しかし、実際はどう動いているのだろうか。毎回毎回土俵はこうであると、上司に抽象的に設定されているだろうか。そんなことはない。実際は個別具体的な案件に基づいて上司の判断を仰いではいないだろうか。それも当然で、日本はそもそもボトムアップの国なのだ。下があげていったものを上が裁定するという構図であり、基本的には「善きに計らえ」という方針なのだ。

なぜ僕らは仕事が「できない」のか

学問的な「問」と仕事の「問」は違う

 先ほどからの繰り返しだが、本当の意味で目標を自分で考える、ということはほぼないと言っていい。仕事の「やり方」を自分で考えさせられているだけであって、本当の意味ですべてを自分で考えているわけではない。
 学問的な問いかけ、というのは常に前提に対し「なぜ、どうして」を繰り返し問いかけることであり、それが止むことはない。俗には「クリティカルシンキング」などと呼ばれているらしいが、「クリティカル」でない「シンキング」などこの世に存在しない。言葉の意味がわからない。それはいったん置いておくにせよ、仕事において学問的(純粋)な思考は求められていないのである。求められているのは設定された目標に対する最短ルートであって、目標を定める力ではない。

調整するコスト

 仕事は当然一人でできるわけではない。先ほど言ったみたいに、上司を説得しなければならないし、例えば手伝ってくれる部下や他の関係者とも調整をしなければならない。その際、前提となるのは、当然目標と現状の設定である。目標と現状を設定すれば自ずと「必要なこと」がわかり、それに合わせてスケジュールを組み立て、ミスなくこなしていくという構図は先述の通り。しかも、目標と現状が共有されていれば、なぜ必要なのか、といったことも説明しやすいし、納得も得やすい。
 しかし、そもそも自分で考える癖がついていた場合、どうなるのか。そもそも設定された目標に対してまず疑問を呈する。そもそも会社の方針自体に疑問を持ちうるし、その上で自分で目標を設定する。そしてその目標に向かって、最適解を発見しようとする。そうなると、恐らく提示された自分の案は、他人にとっては意味不明なものになっているに違いない。そうなると調整コストが跳ね上がる。具体例を見てみよう。

ある銀行の支店Xでは本店からの「リスクの高い債券を回収する」という指示に従って、まったく同様の方針をXでも設定されている。ところがある社員がA社という新規ベンチャー企業に対して、貸付を行うことを提案した。部長は「人の話を聞いていたのか」と怒ったが、その社員はリスクと売り上げが相関していることを説明した上で、「全支店でリスクをとってもグループ全体の売り上げが落ちてしまうため、Xの担当している地域の条件も含めリスクをとる支店として行動すべき」旨を伝えたが、部長は「リスクがあれば不良債権となり、支店の売り上げは結果として落ちる」として、提案を却下した。

 この提案をした社員の目標は「グループ全体」の利益だったが、部長の目標は「リスクの高い債券を回収する」ということだった。しかし、ここで大事なのはなぜ、リスクの高い債券を回収するのか、という説明だったはずだ。つまり、「リスクの高い債券を回収する」も確かに目標だったはずだが、さらなる目標のためのKPIだったはずだ。社員側は自分自身なりに「リスクの高い債券を回収する」という目標を再解釈したうえで、大事なのは会社全体の利益として定義したわけだったが、そのような指示がない中で部長の目標設定は変わらず、「なぜこいつは勝手なことをいうのか」ということになり、却下することとなってしまった。
 こうなるとあとは水掛け論の世界である。リスクを取った方がよい、という話と不良債権を生まない方がよい、という平行線の議論が生まれるのだ。当然部長としては「土俵」が既に「リスクの高い債券を回収する」というもので上から言われているのだから、その土俵を崩すようなことを言われても困る。その土俵を決めている上司への責任を自分が取るのだから。

(過去の記事)議論ができない人の特徴

 意見が食い違う時、思考の前提条件がズレていることがほとんどである。そもそもなんでやってるのだろう、という視点を持つことというのは、自分の仕事を再定義し、本来の目標への最短ルートを導くための手がかりとなる。しかし、それを相対化して目標を再設定することは多大なる調整コストを生む。だから、そういう人間は厄介者扱いされるのだ。

目標設定と困惑

 さて、もう一度自分事として引き寄せて考えてみると、仕事が「できない」のは「必要なこと」がわからないということだった。それをさらに明確にすると「目標がわからない」ということになった。それはなぜかというと、下っ端になればなるほど、受け取る目標というのは、基本的には「目標の目標」であり、実質的にはKPIであり手段である。つまり、手段さえ自分の裁量はない。そして、上司に対してその目標に対し疑問を呈することは先述の通り難しいわけだし、目標の目標を問いかけることはいわんや、なことである。
 また、もう一つ目標設定に見落しやすい罠がある。それは多くの場合、目標が曖昧に設定されていることである。何度か既出ではあるが、「リスクがあるかないか」や「利益を出す」という言葉は極めて意味のない言葉である。例えば利益を出す、といった場合、コストを削るのか、売り上げを伸ばすのかで全く違う次の「やり方」が見えてくる。同時にやるのだろう、と軽々しくいうのだが、それぞれがそれぞれの最適解を出そうとすると結局全体としての一貫性がなくなる(例えば店舗を展開していくのに、人件費をカットしたため人手が不足して過労状態が続きパフォーマンスが落ちる等)。それはそもそもの目標設定が曖昧だったからだ。本当に「利益を出す」という目標を詰めていれば組織全体として、人事部門と営業部門でそれぞれどのような努力をすべきだったかわかったはずだ。
 そのような中で、裁量も認められず、かといって目標も曖昧なままで一体どのように「必要なこと」を抽出していけばいいのか、わからずに困惑している、というのが正直な感想である。
 確かに、「なぜ」を問いかけない人であれば、そこまで難しい話ではないかもしれない。しかし、自省を繰り返す人間からしてみれば、目標が定まっていないためあらゆる可能性が考慮され、一方で短い期限での作業依頼が舞い込んでくる。いわゆる無思考の状態に陥っているわけだが、なぜか案件が進んでいき、また謎が増えていくが仕事もやってくるため、余計なことは考えないようにしようとして、さらに無思考になる。こういったスパイラルの中で、社会に「順応」していくのだということを実感している。そして、大人になると「役割分担だから」「時間的制約があるから」等と理由をつけるようになっていくのは、それは果たして無思考であることの言い訳なのか、ということは当の本人になってみないとわからない。

(過去の記事)少数者:生きづらさは感じたままでいい

大企業における組織構造

 今まで説明を踏まえ、一般論として構造的な問題について記載したいと思う。

責任の所在

 日本の組織の問題点として、丸山眞男は責任の所在が不明確であることを指摘した(無責任の体系)。これは間違っていないと僕は思う。また同様に、海軍反省会を聞いてもらえればわかる通り、意思決定が雰囲気に流されていく様がよくわかる。山本七平のいう空気というのも間違ってはないだろう。
 それぞれの解釈があるものの、上記のような現実を手掛かりに、僕なりの無責任が引き起こされる構造を再解釈し、その歪さを説明することを試みる。

誰が目標を設定しているのか

 話は今まで述べてきたことの延長線である。結局目標の設定は誰がしているのか。先述の通り目標が連鎖しているとなれば、やはり最終決定権者は社長か、会長か、はたまた大臣か、総理大臣か。
 純粋な官僚制は一元的な指揮系統のもと、法的な命令に縛られた状態で余地なく動くことを理念的に観念されている。しかし、実際には日本は即時的かつ場当たり的に物事が決まっていく。ルールや原則に基づくのではなく、その場その場の関係でアドホックに物事が決まっていく(理由は後述)。となると、その意思決定は担当者が行っていることになるのだが、先述の通り目標は上司(とそのまた上司・・・)が決めている。結局どういう構造になっているのか。

上司に「上げる」という発想

 上司に上げるという発想は、そもそも意思決定だけを上司に委託するという構造である。上司が汗をかき、自らの知見に基づいて判断しているのではなく、下っ端とは逆に現状(As is)に対する責任が上司には存在しない。つまり、上司、とりわけ中間管理職は、上がってきた現状を承認し、上司から設定された目標を基に裁定を下している。つまり、自分を介在させる余地がないのである。
 現状の設定も目標の設定もなされている状態で、自分より下のものを判断した上で、それに対する説明責任を負うのである。しかしよく考えてみると、自分を介在させていない状態で、責任を取る、というのは実際には何に対する責任は不明である。
 部下の作業ミスが発覚すれば、それは当然部下のミスであることは明らかだし、目標の設定が誤っていればさらにその上司のせいである。しかし、なぜか怒られる。そしてその怒っている上司はさらにその上司に怒られる。ただ、怒られる連鎖は発生しているのだが、何に怒られているのかは本人たちはよくわかっていない。曖昧な「監督責任」に逃げているだけで、何に対する責任なのかは具体的ではない。その怒る-怒られるという関係は、あくまで自分とその上司の「関係性」によって引き起こされているのであって、「具体的な作業に伴う結果や決断の責任」ではない。

最上位の責任

 では、最上位の責任は何なのか。最上位は状況としては、目標の設定のみであり、現状の設定は自分の手にはない。しかし、現状の設定権がない状態で目標の設定とはどうやって行うのだろうか。現状を踏まえて、初めて目標が設定できるのであって、部下から「上がってきた」現状の設定を基に裁定するのだから、その目標が部下の「上げてきた」ものに左右されることは間違いない。
 一方で、一番の問題は目標を決定しているのか、という問題である。果たして、社長が社内で一番働いている日系大企業は存在しているのだろうか。むしろ、会社の大方針でさえ、秘書か経営企画室が作って「上げた」ものを認可しているだけではないだろうか。そうなると、結局は「お飾り」ということになる。社長は責任を取る、ということだけで実際には部下に任せる(「素敵」な)上司ということになり、実際はフィクサーがいるということになる。しかし、繰り返し述べているように、目標の設定は上司へ連鎖によって行われているはずだった。ここで、初めて誰も決断しない状況、つまり無責任の状態が生まれることになるのだ。

目標と現状に対する設定権のズレ

 このように目標と現状に対する設定権のズレ、というのは結果として無責任な状態を引き起こすことになる。逆に、現状の設定はボトムアップで行われているため非常に緻密であるが、目標の設定権は無責任で行われていることから、非常に曖昧で流動的である。このズレは結果としてマクロが弱く、ミクロに強いという場当たり的組織運営が行われることとなるのだ。それが余計に、一貫性のない組織運営に拍車をかけることとなる。

最後に

 結果として、マクロ的な視点を持つ人間はどうやっても組織の構造上、お荷物にしかならない。我々は構造上どうやっても生きづらいのだ。社会を変革してやろうとも、周りを馬鹿だとも見下すつもりは毛頭ない。ただ、生きづらいだけである。
 自分で考えるというのは窮極的な意味での目標の設定ではあるが、その力というのは仕事には「必要ないもの」だったのだということを、この社会人生活で痛感させられた、というのが自分の振り返りの結果だった。

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