僕が官僚をする理由①

ある時、同期に言われた。「お前は傲慢に見える。偉そうに聞こえるんだ。人の話を聞くんじゃなくて、自分のフィールドに持ち込んで、誰もそんな話してないのに、気が付いたらお前の話になっている。」

実はこの手の言葉は、生まれてこの方ずっと言われてきた言葉だ。それは家族だったり、恋人だったり、友達だったり。友達でない人であっても、裏で言われていたり。改めて言われても「そうだったのか」ということもないし、「そう思われているのがつらい」ということもないが、「やはりそうなんだな」という再確認の瞬間である。

確かにどうしてそうなんだろう、そう思われてしまうんだろうと、思い悩んだ時期もあった。今ではどうしてそう思われているのか、という整理もしたし、みんながそう思う理由もわかる。みんながそう思うこと自体は否定しないしプロセスはわかるけれど、でもそのロジックが正しいとは僕は思っていない。

改めて社会人になって言われてみると、久々に「そういえばそうだったな」ということを思い出した。その場では上手く相手に伝えることができなかったし、少し遠い間違ったことを言ってしまった。言った彼は真剣に向き合ってくれたし、話を聞いてくれる場であったにも関わらず、僕の説明不足できちんと伝えることができなかったことが、大変申し訳なく、そしてもどかしい気持ちになった。だから、いつでもそういった場面になった時にいつでも伝えられるように、改めて整理をしておきたい。

ざっくりと言えば、僕のキャラクターと実態のギャップが起因していることは間違いないだろう。僕は、(個々の僕しか知らない人は、にわかに信じ難いかもしれないが)年中飲み会しているし、異性とも仲良くしてそうで、明るめで、友達も多いし、おじさんからもそこそこ好かれやすく、コミュニケーション能力が高い。



ように思われている。
多分そんな人間が、こういう場で述べている感情や論理を考えるような人間とは実は思わないのだろう。だからみんな、議論が深く入ると、急にとっつきづらくなるので、傲慢に見えたり、何の話をしているのかわからなくなって、腹立たしいのだと思う。

改めて整理をしていきたいと思うが、僕が官僚になろうと思ったり、世の中の制度を変える最終的な目的は、僕みたいな人間を生み出さない世の中を作っていくことだと思っている。僕の描く理想の社会に僕の居場所はない。だから、「僕自身が思うこと」と「僕が世の中がこうあるべきだと思うこと」は大抵の場合矛盾している。僕は自分が幸せになる社会を作ることを望んでいない。

だから僕は覚悟を持っているつもりだし、逆にの他人の覚悟が足りないと思ってしまう。それが一つの傲慢さでもあると思う。

さて、前置きを書いたが、もう少し整理をしておく必要がある。この導入も人によっては「何の話だ」「飛躍し過ぎだろう」と思い、意味不明な扱いをされるのだろう。中々難しいけれど、これを最後まで聞いてくれる人が僕と付き合い続けてくれる人達なのだろう。もちろん感謝しているし、尊敬すらしているが、そういう人達が世の中にあふれてほしいとも思わない自分もいる。


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