「価値判断」という言葉の軽さ

理性の限界について私は述べ続けていたが、福田恒存の『保守とは何か』(1946年)をみていただこう。

私が今から言いたいのは、理性によって現実を理解できると思っている人への批判を福田恒存に代弁してもらう。そのうえで、理性に限界があると理解している人でさえも、その捉え方を誤ることで理性の罠に嵌ることをお伝えしようと思う。

この手の話は妙にけだるい。読める人は読まなくてもわかるだろうし、読めない人には伝わらないであろう。note自体自己満であるから、それはいいのだが、やはり物事の思索は深いに越したことはないことだけは世の多くの人に伝わってほしいと願う。


ぼくのいふ今日の混乱とは、容易に決着のつかぬ問題をただちに決著しようとすることから、というふよりは、決済のできぬ問題を決済の可能な場で考へることから生じたものである。
由来、ぼくたちの人生観を妙にあつさりとわかりやすいものにするひとつの危険な俗論があり、この俗論には知識人や思想家も案外たやすくまゐつてきたものである。といふのは人生が一つの目的を有し、人間活動のあらゆる分野がそれぞれの分担においてこの目的にむかつてうごひているといふ考へである。
が、ぼくたちはあらゆる文化価値を享受しうるとしても、その創造のいとなみを、その由つてきたるところをかならずしも理解しえぬのみならず、またそれを理解する必要はない。その理解する必要のないことをはつきりさういひきらぬために―知らぬ世界を知らぬままに放置する寛容さのないために、ひとびとは知らなければならぬ自己を知りえず、自己のいとなみを完全にはたすことができないのである。
ぼくはぼく自身の内部において政治と文学とを截然と区別するやうにつとめてきた
善き政治は己の限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する
ぼくはぼく自身の現実を二律背反のうちもとらへるがゆえに、人間世界を二元論によつて理解する。ぼくにとつて、真理は窮極において一元に帰一することがない。あらゆる事象の本質に、矛盾対立した永遠に平行のままに存在する二元を見るのである
いまさらぼくは素朴な不可知論に人々を煽動しようとしてゐるのではない。ここでも僕は現実をただみつめてゐることだけでことたりる。そして現実はあきらかに合理の領域と非合理の領域とを同時に並存せしめている

これが福田恒存のいう「知性」の限界である。現実として物事を見る上では知性によって理解できる合理的領域と非合理な領域があるという。それを福田恒存は「政治」と「文学」と呼んだのであろう。

これは私の言うところの「理性領域」と「感性領域」と完全に対応している。つまり、理性を駆使できる部分は理性によって理解を進めることができるが、理性によって理解できない部分が現実には内包されている。よって理性による理解を否定するものでないし、しかし一方で理性によって現実を完全に理解することはできないという。

さらに福田は聖書の「99匹の羊と1匹の羊」を解釈した上で、政治によって救える99匹と文学によって救える1匹の存在を示唆したのだ。

まず、理性の限界としてこれは前提でありたい。

さて、この見解は非常に常識的であろう。広い意味での近代合理主義、理性主義に対する態度としては非常に真っ当であろう。しかし、この福田の二元論は私が陥ったように、理性の過信を招くのである。

この二元論において、やはり問題とされるのは理性的領域である。福田は理性によって現実の「一部」を理解できるといった。これが理性の過信である。

理性は、歴史的・社会的文脈を持つ「言語」という存在に支えられている。

例えば(有名な話だが)、ある母親が家庭教師に対して「非常に頭の使う、論理的なゲームを子供に教えてほしい」と言ったとする。この時、この家庭教師は賭博を教えたのだ。母親は「そうではない」と言って怒ってしまった。

この話の肝は「ゲーム」と「子供」という関連である。この家庭教師は「間違い」ではない。なぜなら、頭の使う論理的な「ゲーム」を教えたという事実は間違っていないからだ。しかし、この文脈で使われるゲームというのは、いわゆる「チェス」とか、何となく想像のつくであろう「子供」にとって教育によさそうなものである。子供に賭け事を教えてもらうことを、母親は想定しなかったはずだ。

何を言いたいのかと言えば、言葉というのは一義的に定義づけをして、数学的に、記号的に用いるものではないということだ。文脈やニュアンス、表情などあらゆるものを踏まえて理解されるものである。

物事を理性で理解しようとするのは「ゲーム」として賭博を教えた家庭教師を完全に肯定することである。この地点で、理性の根幹たる「言語」自体が非常に感性的領域に根差していることがわかるだろう。

この上で、福田の二元論を見ると理性領域は理性によって理解でき、感性は「文学」によって理解するという。しかし、今見たように理性はそもそも感性的領域の所産であり、理性による理解は感性領域よりも表層にあることが言えるだろう。むろん、「感性が正しい」という話ではなく、二元論的に我々は物事を認識しているのではなく、理性や感性による近くを重層的に理解を重ねているという話である。つまり、理性と感性に分けること自体が理性への過信であるという話だ。


この問題の大きなところは、題目の通り「価値判断」のときに大きな問題を生じさせる。

理性領域と感性領域の二元論であれば、感性領域の意思疎通は不可能である。これは福田の「理解する必要がない」という言葉からもわかる。

このような状況の時、互いに意思疎通可能な、つまり共役可能な領域としての「理性領域(政治、化学)」からはみ出たものについては、議論とはならないという話だ。これが「思想は議論しない」という福田の話とつながる。

つまり、価値判断が相対化されることはなくなるのだ。つまり、その人はその人であり、その価値は絶対化する。

ある物事の決断を迫られた際、人は価値観に従って「決著」をつけるが、その価値観が非常に浅薄で薄弱なものである場合、その決断はいかなる価値を持とうか。福田は議論する際、人を批判する前に自分の価値、どうして自分はそう考えたかを振り返れ、と言っているから、それは恐らくこういう危険な事態になることを承知しての主張であったであろうが、それは二元論からは導けない。恐らく、直観的にわかっていたのだろう。福田自身は畢竟、感性と理性の重層的視点によって物事を見ていたのではないのか、と思われる。

本当に「思想は議論しない」のであれば、その思想を議論中に振り返ることはない。福田の近代主義がでたのではないのか。

さて、「価値判断」の話に戻ろう。私が言いたいのは、価値判断をするにあたり、その「価値」への理解が浅い状態で価値判断をし過ぎである、ということをいいたいのである。それは、ほとんどの人間が理性によって物事を理解できるという理性主義者、あるいは理性による限界は知りながらもその運用における誤謬を正しく認知しない近代主義者であるからだ。そのような人間は「自分は自分である」などと言い、自らの価値を深め、豊かにすることはしない。

価値判断という行為は、普通の人が思うよりももっと「向こう側」にある。

むろん、その「向こう側」に行くのは「思索」がすべてではない。物事を重層的に理解することは、善く年を取ればわかることであるからだ。

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