日本では、どうして?という問いがその人を生きづらくする

大それたことをいうつもりではない。

これは、子供の時から感じていた世の中に対する違和感の一つの話である。

オードリーのオールナイトニッポンのうち、2015年6月6日西加奈子がゲストの回である。

彼女の話はあまりにも言いえて妙である。彼女はクラスの教室に不良でもないのに「目つきの悪い子」がいたという。彼女に言わせれば、そんな子は避けれたはずの事にも正面からぶつかってしまう、まっすぐな子らしい。

ある時、西加奈子は中学校の同級生にその目つきの悪い子に勉強を教えていた。その子は、勉強ができずバカな子供だと思われていたそうだ。三角形の角度のうち、一つのXを求める問題だった。彼女は内角の和が180度であるから、残りの角度を引いたらXがもとめられる、と説明したそうだが、彼は一向に理解できなかったそうだ。

なんでわからないのだろうか、と頭を悩ませていたところ、彼は「なんで180度なん?」言った。彼女はここでビックリしたそうだ。彼は馬鹿でも何でもなく、前提とされている条件に対して「どうして?」という問いを発していたのであって、それが周りにも理解されることがなかったのだと。そして誰も取り合ってくれなかったのである。

彼女は「そりゃひねくれるというか、ふてくされるはず」と言う。なるほど、彼女の言う「避けれたはずの事」というのは、みんなが信じてやまないこと、あるいは他人(特に権威のある人)から無批判に受け入れていることであって、「どうして?」という素朴な感情を持つ子は結果として「目つきの悪い子」になってしまうのだ。

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私は今までも「動的左派」という(勝手な)呼称でふれてきたが、常に「どうして?」という不断の問いかけによって物事を解釈していくという態度は、一つの「真っ当」な学問的態度と言えよう。

しかしこういった態度とることは、みんなが信じているものであればあるほど、忌み嫌われる存在となり、そもそもその問自体が理解されることはない。ただの意味がわからない単語を発している人間としか映らないのである。

こういった思考は常人には理解されがたいものの、世間でいうエリート層にでさえ、いやそういった勉強エリートにこそ拒絶感を示される。

勉強エリートというのは言われたことで満点を取ることである。西加奈子が言っていたような「180度だと教えられたら疑うことはなかった」人間であれば、その三角形の「問」は答えることができるであろう。そこで「どうして180度なんですか?」と聞く人間に点数を与えられることは、まずない。

こういう人間は当然排除される。集団というのはその集団で評価された人間が運営するのであって、基本的に自浄作用はない。なんで180度なん?と聞いた彼は一生世間とのズレを感じて生きていくのである。彼の純粋な問いかけは、彼の人生を難しいものにしてしまうのだろう。

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この世間から感じる違和感はもう解消されることはないのかもしれない。学生時代に感じていたこの気持ち悪い感情は、大学に入ると消えることになる。あいにく、大学という場所、いやむしろ”その”場所では、そういった疑問を持つことが大いに寛容されていたからである。しかし、この感情を再び思いだせたのは「仕事」という存在である。

官僚の仕事、というのは基本的に「上司のため」に働く生き物である。特に出世欲、名誉心を言動にする空虚な人間たちは、与えられたレールの上で上司の望む資料、情報を提供することに命を削るのである。

今の時代、学者になれるような頭の持ち主は官僚になどならないのである。せいぜい、東大模試で1位をとったとか、大学のテストの点数がよかったとか、司法試験に受かっただとか、そんな程度であって、古典を読みながら、世の中にたった独りで立ち向かうような人間は官僚にはならないのである。今時、給与が低い、パワハラが横行している、自殺者が出ているような職場に参加するような連中は、官僚という肩書に酔いしれる権威主義的学生に過ぎない。いやむしろ、最近ではお勉強すらできない層になりさがっているかもしれない。

無論断っておくが、学者になる人間の頭がいいというわけではない。ただ少なくとも比率として基礎的学問的態度を備えている人間の比率が高いであろうという話である。

さて、そんな官僚集団は学問的態度をとる人間に対してどのように応答するのだろうか。それは一つ、拒絶である。教授や上司の言う「御誓文」を疑うことなく任務を遂行することが出世の近道だからである。いやそもそも、勉強をしすぎてしまい、疑うということを忘れてしまったのかもしれない。

外務省の中で、いったい誰が国家というものを疑っているのだろうか。
経産省の中で、いったい誰が富というものを疑っているだろうか。
警察庁の中で、いったい誰が法というものを疑っているのだろうか。
財務省の中で、いったい誰が貨幣というものを疑っているのだろうか。

官僚と一度話してみるといいが、彼らは非常に内輪ネタが多い。そして彼らの判断・評価軸は常に「内輪での評価」につきる。それは、東大で”卓越(優秀賞)”を収めた人間を無条件に高く評価し、権威のある上司が認めたものを無条件で受け入れるのである。

彼らの疑うとはせいぜい有識者の話を参考に、「それっぽく」まとめて答申や案文を作ることである。それを政策立案と呼ぶなら、それで陶酔してもらって構わないが、この国の先は私の位置からでもよく見える。



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