理論と実践(官僚としての責務を果たすために)

今書き留めなければならないことは、自分はこの国で何を目指し何をなすべきかということである。そして、それが理論と実践が必要であることを漸く理解してきた段階であることを自覚している。

当然、物事を俯瞰して抽象的なものを抽象的にとらえる、という営みは私が人生の中で培ってきた一つの能力であることを自負している。そしてそれは紛れもない思考的土台として、畢竟私自身の人生の軌跡として遺してきたものに他ならない。

一方で実践という側面を正しく理解していたかと言われると、そうではなかったと反省が伴う。実践が伴わない思考が極めて危険でイデオロギッシュな理想主義で極めて危険であることは、過去の偉人達から徹底した批判が与えてきた通り、当然に理解をしていた、つもりだった。

しかし、政治、広く言えば組織に属した上で権力関係が作用する空間(サラリーマンであれば誰しもが経験する場所)に属することで感じた生々しさというものは、私が想定していた実践よりもはるかに「リアル」だったのだ。政治思想ではリアリズムという言葉が使われるが、それがどこまで本当に「リアル」だったのかと言われると疑問を投げかけたくなるものだ。

そういう意味で、リアリズムの書として有名なマキャヴェリの「君主論」というのは、抽象的な概念ではなく具体的な権謀術数で築き上げられた書籍であるが上にリアリズムなのである。抽象的に整理をすることは、恐らくそのリアリズムのエッセンスを須らく抽出することは難しくて、そういう意味では孫氏の兵法がそのまま現代で生きていくための指南書として愛されていることこそが、リアリズムがリアリズムである所以なのであろう。

無論、「権力そのものが自己目的化」することはリアリズムそのもではないと理解をしているし、そのために理論的支柱を持つことは不可欠であることを承知している。一方で、その理論的支柱が実践とパラレルな関係であることは決して健全であるとは言えないだろう。

理論と実践の線引きは、歴代の共産主義者が引き起こしてきたような、ひいては近代主義者が引き起こし続けているような、現実を理論へと近づけるための実践行動になりかねないからだ。

「ひらく」での斎藤幸平との対談でも佐伯啓思が看過しているように(というかずっと氏が言い続けていることだが)、西洋の近代主義がイデア界で完全な理想を描くという前提は多くの現代の課題を引き起こしていることは確かである。

そういうわけで、私は今自らが養ってきた思想としての理論と、現実に直面した上で乗り越えるものとしての実践を、体系立てて考える段階に来たのではないかと考えている。

繰り返しにはなるが、この実践というのは「目的」に対する「手段」ではない。恐らく、いやこれはほぼ確信に近いところまで来ているが、その手段そのものが物事の本質であろう。だから、実践を「単なる手段」ということを蔑ろにしてはいけない。

例えば、会社で企画書が通らなかった時、普通「どうやったら上司を説得できるだろう」と考える。これは仕事というものが、上司が許認可権を持っているという構造であること、そして説得(会話)という行為がもとめられること、ということを表している。もっと言えば人で成り立ってる組織において言葉を交わすことが大きな手段であることは、人間の本性として言葉が要されていることに他ならない。仕事という言葉自体は「職業や業務として、すること。」という定義がなされていたとしても意味はなく、上述したような実践の複合として認識した方が仕事というものを正しく理解できていることは感覚的にも理解できる。

ここで、理論について考えるにあたり、できる限り演繹的ではない体系を構築することを目指さなければならないことが、私に課された使命であることを強く自覚する。西洋的な目的論から脱却し、あるべき国家を現代において基礎づけるためには不可欠な要素であることに気が付いている。ただし、演繹的でことは論理的ではないということを意味するわけではないことも付記しておきたい。

演繹的ではない、という言葉はすべてに適用するような普遍的定義から話を始めない、ということに過ぎない。私が定義づけるものはどこか不確かで、しかし輪郭が見える、その上で各定義と関わり合いを見せながらその中心を確かに持つ、そんなものであるべきだと考えている。

恐らくそういった理論体系から生み出されるものは、一つの定義から導き出されるのではなく、あらゆる具体的な実践をアドホックに包摂しつつしかし不変の領域を外れない、そしてその外れない領域が(消極的な形で)支柱を定義することになると思っている。

そのような理論体系は冒頭に上げたような、抽象的なものを抽象的なままつかむ、もう少し正確に言えば「漠然としたものを漠然と掴む」、別の言い方をすると「複雑な事象を要素ごとに分解して因果関係を見つけていくのではなく複雑な事象を複雑な事象のまま認識する」ことが求められよう。

さて、その上でこの取り組みは、官僚という国家運営を行う者にとっては不可欠なものであるが、そういった理論的支柱はおろか実践でさえ失われているのではないかという危機感から、なるべくできる範囲から体系立てようとする努力をするものである。理論はさることながら、実践でさえも行き詰っていることは間違いない。行き詰った挙句、政治の方向を向いて忖度を図ったり、政治との権力ゲームの中でベタベタな現実主義に奔走したり、最終的には匙を投げてしまったことで規制を緩和し政治的アクターとしての民間企業に政策手段を奪われ続けた有様がこれである。

幸い私はまだ若い。が、周囲との国家の危機的状況への認識不足や見ている世界の距離に、愕然として既に孤独である。私は祖国のためだけに個人の人生を投げうってこの職業選択をしたのだ。もうやってられない状況である。

先日、師と仰ぐ敬愛する先生と1年越しに再会をした。先生はこういった。「人生で一度もマジョリティ側に立ったと思ったことはない。それでも、どこかに異端の意味がある、これが正しかったんじゃないかと。物事に正解はない。それでも、本当はこうなんじゃないかと、ある種バカになってだね、考え続けている。」

私はこう返した「先生、僕もそう思います。」

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