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和歌山紀北の葬送習俗(16)納棺

▼まず、このページには死体に関する描写があります。読み手に心的外傷を与える可能性があるので注意して下さい。学問的な文脈から述べるにすぎないものですが、一切の責任は問いかねます。
▼登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。

▼湯灌が終わり、死装束が着せられると遺体は納棺されます。この作業も結構な力仕事で、複数名の男手の仕事とされていたようです。

1.納棺の名称

▼村人同士の日常会話の中では、納棺のことを「ノウカン」と言う人は少なかったような覚えがあります。早速事例をみましょう。

・シマイ(仕舞い・終い)(大阪府河内長野市滝畑:年代不詳)
・ミジマイ(身仕舞い)(大阪府河内長野市滝畑:年代不詳)

▼「シマウ」には、片付けるという意味と終わりにするという意味があり、これらの事例も「仕舞う」と「終う」の両方の意味があると考えられます。

2.誰が納棺を行うか

▼さきに、納棺は力仕事なので男手が必要と述べました。一方、納棺をする時間は夜更け頃で、喪家には通常、遺族とその親族しかいないこと、死忌みの関係から近隣や友人もいない、ということで、納棺はやはり血の濃い親族が行うほかなかったようです。事例をみましょう。

・血の濃い者(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代,和歌山県橋本市:昭和40年代)
・血の濃い者4、5人(和歌山県旧那賀郡粉河町:年代不詳)
・男性数人(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)

3.遺体の納め方

▼遺体の安置は、単なる仰向けではなく、事例からはさまざまな配慮が加えられていることがわかります。事例をみましょう。

・手を合掌させ、顔を隠すため頭部を白布で覆う(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・座棺の場合、遺体に胡坐をかかせ、手を合掌させる(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:戦前)
・半裸になって納める(和歌山県旧那賀郡粉河町:年代不詳)
・遺体の手足を縛って納棺する極楽直しという)(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・遺体が硬直しないように、雨垂れの砂を腋や脚関節の裏(ヒッカガミ)などに入れておく(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)

▼半裸になるのは遺体ではなく、それを納める遺族のほうで、これは衣服に忌や故人の霊魂が憑くことを嫌う呪術的な行為であると考えられます。また、遺体の手足を縛ることも故人のよみがえりを拒否する絶縁儀礼であると考えられます。
▼一方、遺体が硬直しないように砂をかけるという行為については、類例があります。事例をみましょう。

・遺体が硬直している場合は庭の土をかけると柔らかくなる(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・日蓮宗の法華経を読むとどんなに硬直した遺体でも柔らかくなる(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・寺の本堂に舎利壺があり、その中の金剛砂を振りかけると硬直した遺体が曲がるとされていたが、町営火葬場ができて寝棺使用が促され、屈身の必要がなくなってからはそれが行われなくなった(和歌山県有田郡旧清水町:昭和40年代)

▼土や砂をふりかけると遺体が柔らかくなるとする言説はもちろんファンタジーで、日蓮宗や法華経、舎利壺などの記述があることから、仏教的な基盤を持つ言い伝えであると考えられます。また、遺体と砂との関係でいえば、真言密教でいう土砂加持(どしゃかじ)の考え方の影響を受けているのかもしれません。

4.棺の内外に施す装飾

▼管理人はこれまであまり気にしたことがなかった、あるいは気づかなかったのが棺の装飾です。結局、これは納棺をした経験のある人でなければわからないと思います(もちろん、管理人は納棺の経験がありません)。早速事例をみましょう。

・棺の中に白木綿の布団を敷く(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・最近は色物の布団や毛布を敷くこともある(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・防臭のために茶殻を敷く(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・夏場はドライアイスを入れる(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・納棺前に棺に目張りをする(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・棺の蓋に「上」と書いて頭の位置の目印とする(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・以前は棺に着物(ガン隠しという)を被せ、これは葬列時に畳んで棺の上に載せ、埋葬後に墓穴掘りに譲渡した(大阪府河内長野市滝畑:年代不詳)
・現在は金襴布地のガン隠しがあり、村の共有物として寺に保管されている(大阪府河内長野市滝畑:年代不詳)

▼遺体の方向を棺に目印するのは、出棺の向きがあるからです(いずれ別ページで取り上げる予定です)。また、「ガン隠し」は金襴生地で、しかも共有物であることから、集落の葬儀、葬式で繰り返し使われた葬具であると考えられます。

5.副葬品

▼副葬品は多彩で、地域的な特徴はみられません。土葬にせよ火葬にせよ、朽ちない副葬品は機能的側面から嫌われるらしく、知人の話では、火葬炉が壊れるから金属は入れないでくれと言われたとのことです。事例をみましょう。

・故人が生前愛用していた品物・食べ物(奈良県吉野郡旧大塔村篠原,奈良県吉野郡野迫川村弓手原,和歌山県橋本市,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野,和歌山県旧那賀郡,和歌山県旧那賀郡粉河町,和歌山県旧那賀郡打田町,和歌山県旧那賀郡池田村,和歌山県旧那賀郡岩出町,和歌山県海草郡旧野上町:年代は省略)
・故人が生前愛用していた物(腐るものに限る)(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
・餅(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・菓子(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・五品(味噌豆、小豆、トウキビ、ソバ、米)(大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代)
・普段炒らないものを炒って入れる(大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代)
・酒・酒瓶(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代,和歌山県橋本市:昭和40年代)
・藁苞(ワラヅト)の中に入れた枕飯(和歌山県旧那賀郡粉河町杉原:平成初年代)
・花(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代,和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・樒の葉(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・煙草・煙草入れ(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代,和歌山県橋本市:昭和40年代)
・盃(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・人形(和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・家族の写真(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・化粧品(女性)(和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・櫛(女性)(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代,和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・鏡(女性)(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・鋏(女性)(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・針・糸(女性)(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・杖(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・数珠(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・手甲(奈良県五條市大津:昭和30年代)
・脚絆(奈良県五條市大津:昭和30年代)
・履物(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・山谷(サンヤ)袋(奈良県五條市大津:昭和30年代)
・頭陀袋やさや袋(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・頭陀袋やさや袋の中に入れた枕飯(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・一文銭(寛永通宝)(和歌山県伊都郡かつらぎ町平:年代不詳)
・六文銭(和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:年代不詳,和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・六文銭(穴が開いたお金6個)(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・六文銭(頭陀袋に入れる)(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・六文銭を入れた頭陀袋を首にかける(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・六道銭(合財袋に入れる)(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・お金(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・お金(現在は100円くらい)(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
・お金(現在は5円を紙に包んだもの)(和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代)
・お金(現在は硬貨6枚)(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・血の濃い者の爪(奈良県吉野郡野迫川村野川:昭和40年代)
・子どもの爪(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・近親者の手足の爪(奈良県五條市大津:昭和30年代,和歌山県橋本市:昭和40年代)
・親きょうだいの手足の爪(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・親きょうだいの頭髪(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・臍の緒(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)

▼これらの事例から、基本的には故人の愛用品や嗜好品を中心に、食べ物、植物、日用品、「袋」、金銭、親族の頭髪や爪などが副葬されたようです。
▼六文銭やお金の副葬は、あの世でもお金が必要だからという意味であると考えられます。また、寛永通宝や五円玉のように、穴の開いた硬貨を副葬するのにも何らかの呪術的意味がありそうです。

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▼納棺時の副葬品には、遺族のさまざまな想いが反映されており、胸につまされるものがあります。

🔸🔸🔸(まだまだ)次回につづく🔸🔸🔸


文献

●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●後藤義隆ほか(1979)『南中部の葬送・墓制』明玄書房(引用p120).
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●河内長野市役所編(1983)『河内長野市史.第9巻(別編1:自然地理・民俗)』河内長野市.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●松本保千代(1979)「和歌山県の葬送・墓制」堀哲他『近畿の葬送・墓制』明玄書房.
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●大塔村史編集委員会編(1979)『奈良県大塔村史』大塔村.
●沢田四郎作・岩井宏実・岸田定雄・高谷重夫(1961)「紀州粉河町民俗調査報告」『近畿民俗』27、pp888-906.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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