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和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗

▼かつての日本には、人が死ぬ前からその家族や関係者が何らかの呪術的な振る舞いをする習俗があったことが知られています。管理人自身は、時代的、世代的にそのような習俗を受け継いでいません。しかし、愛する人が命を終えようとしているときにその生還を希求する気持ちや行為、習俗は別段奇怪でも不思議でもなく、ごく普通の人間としての正常な反応なのではないでしょうか。

1.死亡前の習俗のディテール

▼死亡前に行われる習俗にはどのようなものがあったのでしょうか。管理人の故郷たる和歌山県北部周辺の事例を集めてみました(主に市町村史を参照しました)。但し、以下の各習俗は細部に差こそあれ、ほぼ全国に共通してみられます
▼登場する市町村名の位置関係は「大体ここらへんです」ということで、下図を参照して下さい。

(国土地理院電子国土基本図。管理人が改変)
(国土地理院電子国土基本図。管理人が改変)

▼さて、死亡前の習俗は、(1)魂を呼び戻そうとする行為(2)耳を塞ぐ行為(3)寺社に参詣・参拝する行為(4)物品を授受する行為(5)その他、の5つに分類することができます。

(1)魂を呼び戻そうとする行為:
▼魂を呼び戻そうとする行為の呼び名については、以下の事例があります。

・「タマヨビ(魂呼び)」(奈良県五條市大津:昭和30年代,大阪府河内長野市島ノ谷・日野・高向:年代不詳,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・「タマヨバイ(魂呼ばい)」(和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳,和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代,和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・「タマヨセ(魂寄せ)」(奈良県五條市大津:昭和30年代)
・「ミキヨセ(神寄せ)」(奈良県五條市大津:昭和30年代)

▼これらの行為は、具体的には死亡直前の人の名前を叫ぶのが基本です。以下の事例があります。

死亡直前に近親者が故人の名前を叫ぶ(和歌山県橋本市:昭和40年代)
急死した場合、家の屋根に登って故人の名前を大声で叫ぶ(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)(※死亡の習俗ということになる)
妊婦が出産時に死亡した場合、夫が家の屋根に登って枡や金だらい、バケツ等の鳴り物を叩きながら故人の名前を叫ぶ(大阪府河内長野市島ノ谷・日野・高向:年代不詳)(※死亡の習俗ということになる)

▼この習俗のポイントは、屋根に登るという点です。魂を呼び戻したいのであれば、死者の枕元で叫ぶほうが効果的(❓❓)なはずです。にもかかわらず屋根に登るのは、身体(遺体)から魂が既に抜けているので身体(遺体)に呼びかけても無駄である、より開放的な空間で飛んでいきそうな魂に向かって呼びかける、開放的な空間で叫んだほうが遠く(にいる魂)に声が届きやすい、などの意味があるようです(群馬県史編さん委員会編 1982,井之口 1977,筑波大学さんぽく研究会編 1986)。なお、この習俗については、死者の枕元で叫ぶ事例も全国各地に存在します(屋根に登って叫ぶという習俗自体が古く、廃れたあとに枕元で叫ぶようになったらしい)。

(2)耳を塞ぐ行為:
▼これは、死亡直前の者と同年齢の親しい者が餅で両耳を塞ぐという行為です。行為の名称にそれほどのバリエーションはなく、「ミミフサギ(耳塞ぎ)」「ミミフタギ」「ミミフサギモチ(耳塞ぎ餅)」などと呼ばれていたようです。餅という道具を用いることから、この習俗が昭和中期までのものであったことが分かります(現代人は日常的に餅をこしらえる習慣がない)。和歌山紀北地方に近い奈良県西北部には以下の事例があります。

・故人と同年齢の者が餅で耳を塞ぎ「ええこと聞け、悪いこと聞くな」と3回唱える(奈良県山辺郡:昭和40年代)
2つの枡に入れたぼた餅で耳を塞いだり、ヨモギを耳に詰めて「聞くな、聞くな」と唱えながら近所7軒にぼた餅や銭を配り歩く(奈良県宇陀郡:昭和40年代)

▼この習俗では、「耳を塞ぐ」「同年齢」「」がキーワードとなります。まず、「耳を塞ぐ」のは、訃報や鉦の音に忌がかかっているので自分の内面に入れたくないという意味があるようです(林 1994)。次に、「同年齢」については、同年齢なら付き合いが深いので友引きされる、同年齢なら同じような物を食べているから自分にも死亡リスクがある、などの意味があり、この習俗が血縁の有無を問うていないことから、昔の集落内では同年齢者同士の関係がかなり密接であったと考えられています(橋浦 1955,瀬川 1964,柳田 1963)。そして「餅」を使うのは、餅によって正月行事を行い、歳を一つ重ねたことにして同年齢であることから逃れようとする(瀬川 1964)、餅や米、ヨモギには呪術的、宗教的な力があり、その力によって不幸や災厄を回避しようとする(横井 2014)、などの意味があるようです。なお、全国各地には餅だけでなくお菓子、やかん、鍋の蓋などさまざまなバリエーションがあります。

(3)寺社に参詣・参拝する行為:
▼この習俗は、当たり前というか至極理解できる行為で、集落に必ず一つはある神社やお堂、祠などに参詣、参拝して病人の平癒を祈ったり願かけをしたりすることです。
▼呼び名には「大社参り」「百度参り・百度詣り」「百度石」などがあり、また、呼び名は「大社参り」であっても参る神社は「大社」である必要はなく、要は集落の寺社に参ることです。
▼「大社参り」については、以下の事例があります。

・危篤時に垣内(カイト)の者が集まって大社に参拝し、平癒を祈る(和歌山県旧那賀郡:大正10年代,和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
危篤時に近所や大字の者がお宮に参拝し、祈祷護符を貰って病人の家に贈る(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
危篤時に当家の者がお宮に御酒を持って願をかけに行く(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:年代不詳)
願をかけて死亡した場合は、再びお宮に御酒を持って行って礼をする(「願ほどき」という)(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:年代不詳)

▼また、「百度参り・百度詣り」「百度石」については以下の事例があります。

危篤時に近親者が神社や寺院内の百度石を百遍千遍と廻って祈る(和歌山県旧那賀郡:大正10年代,和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
百度参りは百回参るが、川原の小石を101個か110個になるように持っていくのがよいといった(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)

(4)物品の授受:
▼この習俗は、その人が間もなく死亡すると分かっていながら、病気平癒を願って見舞品を贈ったり、逆にその家から集落の他家に見舞品を配ったりするというものです。以下の事例があります。

村中の者が素麺などの見舞品を持って重病人を見舞う(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
重病人のいる家が、死亡直前に近隣に見舞品のすそ分けをする(和歌山県旧那賀郡粉河町町方:昭和30年代)
近親者が重病人のいる家に高額の見舞品を贈り、重病人のいる家がそれを一般知己、近隣、見舞品をくれた人にすそ分けをする(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
病気中にもらった見舞品のお返しは、死んだときのものを隠しておいて、先にする(和歌山県旧那賀郡貴志川町甘露寺:昭和40年代)
重病人のいる家が、死亡直前に近隣に斎(トキ)(茶碗や鍋など)を配る(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
重病人のいる家が、死亡直前に近隣に全快祝いや快気祝いを贈る。これが間に合わず死亡した場合は忌中見舞を贈る(和歌山県旧那賀郡粉河町中津川:平成初年代)

▼集落の者が重病人のいる家に対して見舞品を贈ることは当たり前として、重病人の死亡直前だというのに見舞い返しをしたり全快祝い、快気祝いをしたりするのは、間もなく死亡するという事実を回避し、病気が治った際の行為をシミュレートすることによって重病人の蘇生を願う意味があると考えられます。

(5)その他:
▼その他の習俗としては、以下の事例があります。

重病人がいる場合、近所の人が集まって般若心経千巻を繰り、小餅を屋根に投げる(「テンゴク(天国)」という)(奈良県五條市近内:昭和30年代)
死者は葬式が済むまでの間に熊野の妙法山に参るが、生前に参っておけばこの時参らずに済むという(和歌山県旧那賀郡貴志川町甘露寺:昭和50年代)

▼後者の「熊野参り」については、死者の魂が熊野三山(現在は世界文化遺産になっているあの熊野古道の熊野です)に参るという俗信がこの地方には根強く存在しています。中部地方以東、以北では「善光寺参り」が一般的です。熊野三山や善光寺のように、この俗信の対象は(失礼、無礼ながら)そこらへんにある寺社ではダメで、死者の魂を強烈に引き寄せるような、権威的価値のある、ありがたいパワースポットでなければなりません。

2.なぜ死亡前なのに葬儀、葬式があるのか

▼以上にみた習俗のかずかずは、いずれも蘇生儀礼(死体から抜けようとする霊魂を呼び戻し、蘇生を願う儀礼)であると考えられます(『和歌山紀北の葬送習俗(1)予備知識』参照)。この点で、葬儀、葬式はその人が死ぬ前から始まっているといえます。
▼そして、死亡前の習俗や蘇生儀礼がさまざまな形で存在した最大の理由は、昔(昭和中期頃まで)は人の死亡時刻が正確に分からなかったからです。現代医療がそれほど発達していなかった昭和中期頃までは、死にゆく人がいつ死んだのかがはっきり分からず、「生→死」ではなく「生→どちらでもない状態→死」というプロセスを辿るのが普通で、「どちらでもない状態」の時間が長いがゆえに「一度出ていった魂が戻ってくるかも」という、蘇生儀礼につながるような信念が生まれたと考えられます。

🔸🔸🔸(まだまだ)次回につづく🔸🔸🔸



文献

●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●群馬県史編さん委員会編(1982)『群馬県史.資料編26(民俗2:信仰.民俗知識.郷土芸能.人の一生)』群馬県.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●橋浦泰雄(1955)『日本の家族』日本評論新社.
●林英一(1994)「死の忌の複合的構成―埼玉県児玉郡神川町渡瀬の事例を中心にして」『近畿民俗』136/137、pp67-82.
●井之口章次(1977)『日本の葬式(筑摩叢書)』筑摩書房(引用p6).
●岩出町誌編集委員会編(1976)『岩出町誌』岩出町.
●河内長野市役所編(1983)『河内長野市史.第9巻(別編1:自然地理・民俗)』河内長野市.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●近畿民俗学会編(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅱ)民家・民具」『近畿民俗』84/85、pp3438-3444.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部編(1939)『田中村郷土誌』那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●大塔村史編集委員会編(1959)『大塔村史』大塔村.
●大塔村史編集委員会編(1979)『奈良県大塔村史』大塔村.
●瀬川清子(1964)『日本人の衣食住(日本の民俗第2巻)』河出書房新社.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●筑波大学さんぽく研究会編(1986)『山北町の民俗2(人生儀礼)』山北町教育委員会.
●柳田国男(1963)『定本柳田国男集.第15巻』筑摩書房.
●横井教章(2014)「葬送儀礼に見られる米―民俗誌の記述を中心に―」『佛教経済研究』43、pp265-290.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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