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和歌山紀北の葬送習俗(12)通夜

▼シリーズ12回目にしてようやく通夜を取り上げます(いつになったら完結するのでしょうか…)。通夜という行事の内容は、今も昔もさほど変わりません。通夜のデフォルトは、喪家と近親者が徹夜で遺体とともに過ごすというもので、徹夜=「夜を通す」=「通夜」なわけです。喪家でない限り、通夜の細部を体験することはできません。すなわち、夜のはじめに参列して焼香することは本来の通夜ではありません。それは、通夜のごく一部(ハンツヤ半通夜)という)です。ともあれ、内容にまいりましょう。
▼なお、登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。

1.通夜の参列者

▼第三者が通夜に参列するようになったのは比較的最近になってからです。早速事例をみましょう。

・元来は近親者だけの行事だった(和歌山県橋本市:年代不詳)
・血の濃い者(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
・遺族、近親、親戚(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・親戚、班の者(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
・親戚、六斎衆(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・親戚、近所、垣内、親友など(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代,和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
・最近は近親者以外の忌がかからない者も出席するのが習わし(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・最近は他人が参加するようになった(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)

▼このように、通夜はもともと喪家と血縁者を中心とした行事で、そこに班の者、垣内(カイト)の者、親友、六斎衆のような「他人」が参列するようになったのは戦後になってからのようです。

2.通夜をいつ行うか

▼私たちが参列する通夜は、一般的には18:00から19:00といったところでしょうか。事例をみましょう。

・18時から(奈良県大和郡山市小泉町:平成20年)
・19時か20時頃(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・集落の者は訃報を知ると直ちに悔やみに行く(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・集落の者は夕食後に悔やみに行き、その後通夜の列に加わる(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・集落の者は翌日の仕事があるので大抵は半通夜で帰り、親戚や親友は徹夜する(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代,和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)

▼これらの事例から、昭和中期には通夜の参列に時間指定がなかったことはほぼ確実です。おそらく、大人の仕事の都合上「時間を決めてもらったほうが分かりやすくて助かる」などの理由で後年、時間の目安が決められたのでしょう。さきにみたように、第三者が通夜に参列するようになったのは戦後と考えられるので、通夜の参列やその時間が「マナー」であるとすれば、その歴史は極めて浅いといえるでしょう。

3.徹夜とその内容

▼近親者のみによる本来の通夜は、徹夜して遺体と一緒に過ごすことです。これに関する事例をみましょう。

・血の濃い者が集まり、遺体の前で一夜を明かす(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
・兄弟や子たちが夜通し枕元にいて夜明けを待つ(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・遺族、近親、親戚が遺体の前で不眠で見守る。この間、食べたり世間話をして眠りに耐える(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・親族は会葬者帰宅後に湯灌、納棺を済ませ、翌朝まで徹夜で夜とぎをする(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・徹夜をすることはない(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)

▼これらのことから、遺体の傍で徹夜するという通夜の原型は何か特殊なことをするのではなく、ひたすら一夜を明かすだけのようです。なお、「ヨトギ(夜とぎ)」とは通夜の別名で、遺体とともに徹夜する、そのままの意味です。
▼あえて、通夜で決まりごとがあるとすれば、ロウソクや線香の火を絶やしてはならないことで、これは故人の霊魂が道に迷わずあの世に行けるように道標の明かりを絶やしてはならないという意味でしょう。そして、一番下の事例にあるように、徹夜という通夜本来の意味は時代とともに次第に抜け落ちていったと考えられます。

4.通夜の食事

▼通夜で第三者としての参列者に対して食事が出されることはほとんどありません。また、血縁者であっても、通夜で特別な意味を持つ食事をする事例はあまりみられません。一応、事例をみましょう。

・夜食を出して饗応する(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・茶菓子を出す(和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・茶漬けを出す(和歌山県海草郡旧初島町:年代不詳)
・茶菓子等の引物を出し、また精進物の御膳を出して饗応する(和歌山県旧那賀郡:大正10年代)
・清めの酒をふるまう家もある(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)

▼これらをみると、茶菓子や茶漬けは「引き物」「精進物」とあるように軽食で、また、通夜であろうがなかろうが何らかの食事は必要であることから、これらは宗教上、呪術上の意味ではなく単にもてなす意味であると考えられます。一方、「清めの酒」については、翌日の本葬に出ない近親者に対する精進上げの意味があると考えられます。

5.その他

▼通夜は、その本質が徹夜することであるという至ってシンプルな行事であり、特別な意味のあるバリエーションは各地の事例から拾い出すことができません。その上で、雑多な(というと失礼かも知れませんが)事例をあげてみます。

・談話は小声で行い、物静かに振る舞う(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・近所の親族は帰るが遠方の親族は泊まる(大阪府南河内郡旧川上村:昭和20年代)
・通夜時は遺体を白木綿(昔は白羽二重)の布団に寝かせる(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・観音像の三幅対の掛け軸を掛ける(和歌山県旧那賀郡粉河町中津川:昭和30年代)
・近所の高齢者が集まって詠歌をあげる(大阪府南河内郡旧川上村:昭和20年代)
・枕経が済むと老人仲間らが詠歌を唱える所もある(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・弔問客が帰宅してひと段落すると、隣組の女性らが集まって浄土日用勤行、西国三十三か所の詠歌を唱える(奈良県大和郡山市小泉町:平成20年)
・親戚、知己、五重仲間らが念仏を唱える(和歌山県旧那賀郡:大正10年代)
・親戚、知己、近所の者が集まり念仏や御詠歌を唱える(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)

▼このように、静かにする、白木綿の布団に寝かせる(白木綿は死に装束の素材として必ず使われる)、掛け軸を掛けるなどのディテールが確認できます。そして、第三者が詠歌や六斎念仏を唱える事例が多くみられます。特に、六斎念仏は紀伊半島中北部で非常に普及しており、六斎念仏講(六斎念仏を唱える人たちが集まった組織)が集落の政治を実質的に支配していた事例(しかも昭和中後期まで❗)が数多く残されています。六斎念仏が普及している集落では、通夜だけでなく本葬でも、そして埋め墓の前でも念仏を唱える習俗が残されています。

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▼さきの事例にみられたように、今では親族が通夜で徹夜するという習俗はあまりみられません。そもそも、通夜で喪家以外の親族が宿泊するという風景を管理人は見たことがありません。通夜の本質である徹夜は、それが可能となるような社会的背景があってこそでしょう。すなわち、本来の通夜は、農耕が主要な職業であった時代のもので、どこかに勤めに行くことが大半の社会になると、翌日のこともあるので半通夜が通夜を意味するようになったと考えられます。

🔸🔸🔸(まだまだ)次回につづく🔸🔸🔸


文献

●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●初島町誌編集委員会編(1962)『初島町誌』初島町教育委員会.
●市原輝士ほか(1979)『四国の葬送・墓制』明玄書房(引用p150).
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部編(1939)『田中村郷土誌』那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部.
●中野吉信編(1954)『川上村史』川上村史編纂委員会.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●大塔村史編集委員会編(1959)『大塔村史』大塔村.
●大塔村史編集委員会編(1979)『奈良県大塔村史』大塔村.
●沢田四郎作・岩井宏実・岸田定雄・高谷重夫(1961)「紀州粉河町民俗調査報告」『近畿民俗』27、pp888-906.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●田中麻里(2010)「奈良県の田の字型民家における葬送儀礼の空間利用―告別式、満中陰、一周忌を事例として―」『群馬大学教育学部紀要:芸術・技術・体育・生活科学編』45、pp145-152.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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