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和歌山紀北の葬送習俗(11)葬具と棺の調達

▼今回は、葬具と棺の調達を取り上げてみます。葬儀、葬式で使う葬具と棺は、線香とロウソクを除いては日常生活で使うことはまずありません。普段見慣れない葬具や棺が目の前にあるという非日常的な光景は忘れがたく、また、凝った装飾や彫刻に満ちた祭壇は一種の「舞台装置」のようなものです。

1.葬具をどこから調達するか

▼葬具の調達は、今は葬儀屋が全部やってくれます。また、自宅、葬儀場を問わず、葬具や棺の類はそれに費やす予算によってランクがあり、喪家の経済状態が露骨に出ます。
▼自宅での葬儀が主流だった昭和後期、平成初年代頃までは、今でいう一般的な葬儀屋が全国に進出、普及していませんでした。このことをふまえ、かつて葬具や棺はどこから調達したのでしょうか。事例をみましょう。

野道具は寺から借りる(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・野道具は高野山から買う(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
葬具は紀ノ川沿いのソウレン屋が支度する(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
葬具はソウレン屋、棺は妙寺か笠田に買いに行く(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳。「妙寺」「笠田」はかつらぎ町内の地名)
葬具は葬儀屋から求めるようになった(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
現在は葬儀屋が全部調達する(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
棺を運ぶ輿(こし)は現在は葬儀屋で借りるが、もとは村共同のものがあった(大阪府河内長野市:年代不詳)

▼これらのうち、「野道具」とは、自宅から墓場まで葬列を作って歩きながら持つ葬具のことです(多くは手作りの使い捨てで、墓場で捨てるなり焼くなりする)。次に、「ソウレン屋」という単語と「葬儀屋」という単語があります。「ソウレン屋」と「葬儀屋」の違いを正確に説明するのは難しいですが、頑張って説明を試みます。
▼都市、地方を問わず、今この時代にどこにでもありそうな葬儀屋さんが「葬儀屋」であるとお考え下さい。「葬儀屋」は斎場を持っており、また複数の宗派、宗教に対応することができます。平成年代には豪奢で広い斎場を持つ葬儀屋が多かった印象があり、最近は家族葬が流行なのか、割とこじんまりした葬儀屋が目立つようになりました。
▼一方、「ソウレン屋」とは、和歌山県紀北地方及び奈良県南部地方では葬儀、葬式のことを昔は「ソーレン(葬礼)」と呼んでおり(『和歌山紀北の葬送習俗(2)葬式の呼び名』参照)、やはり葬儀屋のことです。しかし、「ソーレン屋」は今の「葬儀屋」とは性質が全く異なります。「ソーレン屋」は、たいていはその集落に居を構える個人が自営しており、斎場を持っていません。集落御用達で、ある家が葬儀、葬式を出そうとなったときはその「ソーレン屋」の一択です。「ソーレン屋」は火葬場に行って焼却炉を扱うこともあれば、埋め墓に行って埋葬の段取りもします(ときには墓穴も掘る)。そして、「ソーレン屋」は葬儀、葬式に必要な葬具一式を持っていて、集落の人に貸すのです。こうした「ソーレン屋」はかつて「オンボ(隠亡・隠坊)」と呼ばれており、その集落とは切っても切り離せない大切な存在でした。「ソーレン屋」は、現代的な葬儀屋の進出によって平成年代にはフェイドアウトしました。
▼これらの事例に関してもう一つ。田舎では、集落のお寺が葬具を保管している例が結構あります。そして、葬具は寺の持ち物ではなく集落全員の共有物で、集落の者でなければそれを借りることができないという決まりがありました(入会(いりあい)権という)。ちなみに、集落の寺には葬具だけでなく餅つき用の杵と臼、味噌づくり用の豆挽き器などさまざまな共有物が保管されており、入会とはその集落で基本となる義務を果たしている限りはそれらを使うことができるというシステムです(したがって、村八分にされると使う権利がなくなる)。
▼話を元に戻して、葬具や棺は基本的には集落内、広くみて隣町よりも内側で自己完結的に調達することが多かったようです。

2.棺の調達

▼次に、棺に焦点を絞り込んでみます。棺の調達はどうなのでしょうか。事例をみましょう。

昔は自分たちで棺桶を作った(和歌山県海草郡:年代不詳)
昔は座棺はどこでも家で作っていたが、後年長野町あたりの葬儀屋で買うようになった(大阪府河内長野市:年代不詳。「長野町」とは現在の河内長野市中心部)
・棺桶は桶屋に頼んで作ってもらった(和歌山県海草郡旧野上町:年代不詳)
・桶屋は多く作るほど仏の供徳にありつき、自分が長生きできるといって喜んで作った(和歌山県海草郡旧野上町:年代不詳)
・健在時に棺桶を作っておく習俗がある。棺は平素は米櫃にしておく(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:昭和50年代)

▼このように、年代不詳の事例が多いとはいえ、棺はもともと自家製が多く、また桶屋に作ってもらった、米櫃に使ったという事例から、これらは座棺のことであると考えられます。そこで、棺の形状に関する事例をみましょう。

昔は座棺だった(大阪府河内長野市,和歌山県旧那賀郡粉河町,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:いずれも年代不詳)
・昭和10年前後までは座棺だった(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和10年代)
・終戦頃までは場所が狭かったので座棺(タテ棺)だった(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:終戦頃まで)
・明治時代末期に初めてタテ棺が導入された。それまではヨコ棺(棺を横に倒して「一本おうこ」(竿で吊ること)で担ぐので淋しい風景だった。但しこれは火葬の場合(奈良県吉野郡旧大塔村:昭和30年代)
・四角い座棺だった(和歌山県旧那賀郡粉河町藤井:年代不詳)
・昔は棺桶は丸い棺であり、座らせて納棺した(和歌山県海草郡旧野上町:年代不詳)
・明治時代頃までは桶だった(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:明治年間頃)
・古くは丸棺だったが、最近は角の寝棺になった(奈良県吉野郡野迫川村:年代不詳・昭和40年代)
・寝棺になったのは経済的に楽になってからである(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:戦後)
・立て棺あるいは寝棺を用いる(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)

▼これらの事例から、一部の例外を除けば座棺(丸棺、竪棺)→寝棺(横棺)という歴史的変化がみられるようです。中善寺と林は、棺の歴史と現代の棺事情を木材という側面から検討しています。要点は以下の通りです(中善寺・林 2017)。

*棺は甕型土器→木棺・石棺→陶棺・粘土棺・乾漆棺など多様化→木棺という素材の歴史を辿る。
*縄文・弥生時代の屈葬と座棺との関係はよくわかっていない。
*座棺の歴史は鎌倉時代まで遡ることができる。
*中世以降、火葬が進んだこともあり棺の簡素化が進んだ。
*江戸時代の一般民衆は木桶の座棺が主流であった。
*明治時代に上流階級が木製寝棺を使用し始め、昭和30年代に寝棺が一般に普及した。
*かつては死亡後に座棺を製造していた。
*昭和30~40年代までは葬儀屋か地元木工所が棺を製造していた。
*今の寝棺には釘がない。
*今の寝棺は木棺よりも布張棺が多い。
*今の寝棺はほとんどが中国製の量産品で、かつ素材も大半が外国材である。

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▼このページでは新旧の「葬儀屋」に言及しました。管理人の故郷和歌山県橋本市では、「旧」葬儀屋がフェイドアウトしていったのはおそらく1990年代はじめから中期にかけてで、地元資本以外の「新」葬儀屋が市内某所に進出しようとしたときに、建設予定地の住民による大反対運動が起きました。結局、その「新」葬儀屋は建設され、今もあると思います。このテの住民反対運動でよく使われる方便が「地価が下がる」というもので、斎場が建設されて周辺地価が下がったというエビデンスはもちろんありません。その後、橋本市内には皮肉なことに一等地にも葬儀場が進出し、反対運動は特に起きていません。

🔸🔸🔸(まだまだ)次回につづく🔸🔸🔸


文献

●中善寺涼・林宇一(2017)「棺・卒塔婆における原料の変遷」『宇都宮大学演習林報告』53、pp43-53.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●河内長野市役所編(1983)『河内長野市史.第9巻(別編1:自然地理・民俗)』河内長野市.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●民俗学研究所編(1955)『日本民俗図録』朝日新聞社(引用p129).
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●野田三郎(1974)『日本の民俗30和歌山』第一法規出版.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●大塔村史編集委員会編(1959)『大塔村史』大塔村.
●大塔村史編集委員会編(1979)『奈良県大塔村史』大塔村.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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