如月紅梅
大衆演劇にまつわる、ほぼ自伝小説です。
英会話スクールのコーチに微妙に分かりにくいヘタウマなイラストカードを発音させられるのだが、1個だけ生徒が全員返答できなくて困るやつがある。 そんな変な魚知らない。発音はわかるが、何魚? 海にいる。 だけがヒント。 えー、日本海にはいないよねー。 と、謎の魚問答が続く。 テレビを見ても、お風呂に入っても、気になる。 紅ちゃん、新しくペットショップできたから行こー。 弟がノリノリで誘ってきた。 もちろんOK〜。 私もノリノリで返事をした。 いつか犬が飼いたいねーと弟と巡っ
小3の下校中に家が近所の団地に住む友人と話していた。 ゆっちゃん凄いね!英検1級取ったんだ!! 私にはゆっちゃんがキラキラと輝いて見える。 えへへ。ちょっと頑張っただけだよ。 ゆっちゃんは照れながらも得意げだ。 紅ちゃんも英会話スクール通いだしたんだよね? あー、弟の子守りみたいな感じだよ。 でもゆっちゃんは大人でも取れない資格だから、なんでも出来るね。 将来は海外生活かな〜? 彼女の夢を膨らませつつ、家路に着こうとした時だった。 あっ、外国人だ。 ゆっちゃん、助け
コウくん、そう言うお話だったの。 長々聞いてくれてありがとう。 そうだったんだ。 紅子ちゃん急にへたり込んだから、本気で心配しちゃったよー。 でも、何で記憶に蓋してたの? うーん、5歳位の時かな?母におじいちゃんとおばあちゃんと劇場行くんだって話したら、烈火のごとく怒鳴られてね。 仕事も忙しい時代だったから、ストレスもあって、そういうの嫌いなんじゃないかなーって思って。 そこから親には一言も言わなくなって、封印してたっぽい。 でも所作は覚えてて、不思議なこといっぱいあ
数年後、おじいちゃんとおばあちゃんは相次いで病没した。 私は中学生になって、もうセーラー服姿も板に着いた頃だった。 自宅葬の時代だったので、隣組のおじさん達、炊き出しのご近所の奥様達が台所に居て、私一人がペコペコ頭を下げ、参列者や生花屋、パック膳やドライアイスを持ってくる業者の相手をしていた。 両親は仕事に出かけ、仕事の合間にも寄らなかった。 長いお経の最中、疲れでボーゼンとしていた。 生花を棺に入れる部屋に行こうとしていた時。 足がしびれ過ぎて、叔母の喪服のスカートを
わしはな、おばあちゃんに心底惚れたんじゃ。 へえで一座を辞めたんじゃ。 おばあちゃんがな、不安定な仕事より安定した場所で安定した仕事につかんと嫌じゃ言うけえ。 おじいちゃんはその後、水道配管工になったのは知っている。 と言うか、そこまでからしか知らない。 飲む打つ買うの三拍子が抜けないまま、町中で夜逃げを繰り返してはすぐ捕まり、和裁の腕があったおばあちゃんが細々と家庭を支えていた。 かつて父は言っていた。 貧乏すぎて牛肉はおろか鶏肉も食べられない。 唯一のご馳走は鶏皮
ひとつ、こっくりとした赤色に煌びやかな細工がしてある玉の付いたかんざしを出された。 わぁ、きれい。 思わずため息が出た。 これはな、おばあちゃんの宝物の1つじゃ。 ふっと微笑んで言った。 おじいちゃんから16の頃貰ったんよ。まだ鴨居の村におった時にな。 鴨居村はここより遥か遠い県境の村だとは学校で学んだ事がある。 わしがな、旅一座の座長をしとる時にな、あげたんじゃ。 ばあさんに一目惚れしてのう。 おじいちゃんは珍しくガハハと高笑いし、照れ隠しをしている。 おじいちゃん
おばあちゃんのおじいちゃんへの悪態は凄まじい。 この非国民、所詮なまくら刀、などなど。 以前にも書いたが、もはや悪態セラピストだとしか言いようの無い状態。 決まっておじいちゃんは背中を丸めて真鍮のキセルを片手に、扇子で仰ぎながら、黙って囲碁を打っている。 おじいちゃんのよく居る部屋を見渡すと、妙に高価なものが多い。 たまーに使う純銀のキセル、ずっと飾っている大判小判の入った額縁、赤ちゃんの頃の私がちょっと欠けさせてしまった白檀の透かし彫りの扇子、蛤でできた高級な碁石、カヤ
紅子ちゃん、椿山の公民館で銭太鼓やるから一緒に行こ。先生が待ってるって。 幼なじみが誘ってきた。 うーん、ごめんね。 無理かなあ。 劇場が潰れてしまい、舞台に立てなくなった私は、民舞へのモチベーションがだだ下がりになってしまった。 でも先生がどうしても紅子ちゃんに来て欲しいって。 大体の理由は察した。 芸事に厳しすぎる師範が怒鳴り散らして教えれば、公民館で習う生徒さんが自動的に減る。 イコール収入が激減する。 唯一の生え抜きで、ましてやお金を貰って舞台に立っていた私か
とうとうレイも5000円になったか、不景気じゃのう。 お花も飛ばんようになったなあ。 前はようけえ飛んどったんじゃけどなあ。 常連客の年寄り達は口々にそう言っている。 時はバブル崩壊後だったが、田舎にもとうとう余波がやって来た。 ここもその内に潰れてしまうのか。 私も小3になり、ある程度は理解している。 校外学習に行った際、この劇場の跡地にショッピングモールが出来るのを知っているからだ。 あと僅かの憩いの場に、最後まで居たい。 子供踊りの出演願いを劇団の小5のお兄さ
今何歳?名前は何? 劇場の裏口でいつもの様に遊んでいると、急に話しかけられた。 紅子、小2だけど? もしかして椿山小学校? うん。 私ね!同じ小学校の4年生に転校してきたの! 1ヶ月だけだけど、小学校で少しでもいっぱいお友達作りたいの!学校やこの町で流行ってる事や方言とか教えて!! 息せき切って話し出した少女の気持ちは、ある程度は理解したが、ここまでの熱意は初めてだった。 えっとね、4年生と5年生の間だと、女子は長縄跳びしてて、男子はサッカーやってる。 ドッジボールは女
おばあちゃんが街の劇場に行った際の記念写真を額縁に入れて、ニコニコしっぱなしだ。 まるで乙女に戻ったかの様。 普段ならおじいちゃんに悪態つきまくりで、おじいちゃんは静かに囲碁をやりながら、キセルを燻らせているだけだ。 もはや悪態セラピーじゃないかと思えるレベル。 しかし、あれ以来おばあちゃんはご機嫌だ。 紅子、時代劇観よう。 誰が出てるの? おばあちゃんの「心の恋人」が出るんじゃ。 心の恋人って? 街の劇場で写真撮った人じゃ。 あー、あの人かあ。 凄いね!テレビにも出る
紅子、おばあちゃんと汽車で街の劇場行かんか? 父さんお母さんでも食べさせたことの無いパフェ食べさせちゃるけん。 おばあちゃんにしては気前が良すぎる話に、私は驚いた。 えー、ホントに? ほんまじゃ。 じゃあ行く!! 子供にとってはこの上ない話に浮かれていた。 夢のパフェを思い描いていた。 当日、バッチリ準備を済ませ、つかの間の汽車旅を楽しんだ が 街の駅から途方も無い距離を歩かされてしまった。 歩けど歩けど到着しない。 おばあちゃん、バス乗ろうよー。 もう疲れたよ
子供のいない劇団も多くある。 そういう所には裏口にお邪魔せず、じっくりと 観劇している。 お金のある大所帯の劇団は有線マイクを首からぶら下げて芝居をしていたり、時代も急成長して行くと、もっとお金のある劇団は無線マイクをぶら下げたりで、舞台発声も次第にしなくなっていく過渡期を観ていた。 またおばあちゃんはデパートの袋を劇場に持ってきている。 また豪華なお菓子なんだろう。 芝居が終わったあと、私の手を引いて楽屋口の暖簾前に行った。 ✕✕の妻ですが。 今度は違う名前
おじいちゃんは時々観に来るが、決まって席に座らず、1番奥の座敷と言うか、照明さんの近くにしゃがんで1人で居る。 特に感想も言わなければ、終わったら黙って帰る。 お芝居が終わったあと、おばあちゃんに手を引かれて楽屋口に連れていかれた。 ○○の妻です。座長さんは居ますか? 聞いた事のない名前に奇妙な違和感を覚えた。 おばあちゃんは若い座員さんが顔をのぞかせたので、再び○○の妻で、座長を呼ぶようにと伝えていた。 こっから先は楽屋だよ。 婆さんとガキは帰った帰った! 手で
旅一座達の中で、私は噂になっていった。 地元の劇場に出入りする、芝居も舞踊もこなせる子供がいると。 噂を聞いた一座達からは引っ張りだこで出演していた。 勿論スカウトも何回かあった。 全部断った。 理由は西日本をまわる劇団は、男しか座長になれない。 女は添え物に過ぎないので、お給料もお花もほとんど飛ばない。 それでお断りしていた。 そんな折、おばあちゃんが浴衣を縫ってくれた。 いつも借り物か稽古着の浴衣だったので、本番用のフリルをあしらった、花柄のピンク色の浴衣。 キュ
ある昼の部の最中、一座の子供達が神妙な面持ちで言った。 私ね、この仕事もう嫌。 転校ばかりで友達も出来ない。 学校に行っても午前中で帰らなきゃ行けないし。 私と弟は座長の子だから、跡継ぎになる。 そんなの絶対嫌。 ねえ、ここは地元でしょ? 家出先教えて。 お願い。 俺も嫌だ。 座長なんてなりたくない。 俺からも頼む。 僕は座員の子だから、一生平でやっていかなきゃ行けないの、嫌。 紅子ちゃん、お願い!! 幼い私にも皆の哀しみと覚悟が深く伝わった。 私も腹をくくって言った