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5幕・昔の名前で待ってます



おじいちゃんは時々観に来るが、決まって席に座らず、1番奥の座敷と言うか、照明さんの近くにしゃがんで1人で居る。
特に感想も言わなければ、終わったら黙って帰る。

お芝居が終わったあと、おばあちゃんに手を引かれて楽屋口に連れていかれた。

○○の妻です。座長さんは居ますか?

聞いた事のない名前に奇妙な違和感を覚えた。

おばあちゃんは若い座員さんが顔をのぞかせたので、再び○○の妻で、座長を呼ぶようにと伝えていた。

こっから先は楽屋だよ。
婆さんとガキは帰った帰った!

手で追い払う仕草で、面倒な客だとか贔屓じゃない癖になんだかんだと、つれない返答が帰ってきた。

その瞬間。

なんて失礼な事を言うんだっ!!
うちの若いのがとんだご無礼を働きまして、申し訳ありません。
○○さんの奥様とお孫様ですか!むさ苦しい場所ですが、どうぞこちらへ。

走ってやって来た座長さんは、座員の肩をどけて、怒鳴ったり謝ったり笑顔だったりと忙しく態度を変えている。

私と若い座員は何が起きたのか全く解っていない。

ただ、田舎では手に入らないデパートの袋をぶら下げているおばあちゃんは珍しい。

昔は楽屋は座長さんから大きい個室を使う。
そこでおばあちゃんは見たことも無い立派な包みを差し出した。

座長さんは仰々しく受け取り、高級なお菓子を広げたまま
「○○さん」とやらについて2人は話し出した。
座長さんは若い頃から大変お世話になったそうだ。
夜が深けても○○さんと言う人物について延々と話す二人の間で、退屈と空腹で私は楽屋を後にした。
広い雑魚寝部屋に行くと、世話役の年配女性がいたので、声をかけようか悩んでいると

あんた誰の子だい?
まあ誰の子だか知らないけどカレー食べていきな。
布団も敷くから今夜は遅いし寝な。
子供は早寝早起きするもんだ。

当時は人情がまだ当たり前の様にある時代。
ちゃきちゃきの年配女性は手際良くカレーを見ず知らずの子供である私に振舞ってくれ、ふかふかの布団を敷いてくれた。

あの日のカレーの味は今でも覚えている。
素朴ながらとても美味しかった。

座長の愛人かねえ。
あの人ったらいつまで話し込んでるんだか。

眠りにつく前にとんでもない話題が出たが、疲れ果てた私は眠りについた。

目を覚まし布団を畳んで、年配女性に一宿一飯のお礼を告げた。

もうあんたの婆さんは帰ったよ。
朝ごはん食べていくかい。
腹が減ったままじゃ帰るに帰れないだろう。

温めてあるお味噌汁とご飯をいただき、今が何時かも分からず食べていた。

「○○さん」とは誰で、おばあちゃんが座長さんに特別な存在である事は何なのか。
全く分からない。

朝ごはんを食べた後、洗い場に持っていき、再びお礼を告げた。

あんたの婆さんから起きたら電話する様に言われたよ。
そこが電話だから使いなよ。
電話の番号は解るかい?

ちゃきちゃき年配女性は、妙に親切だった。
「○○さん」のおかげかな。

そうしておばあちゃんは迎えに来てくれ、座長さん自らお見送りして下さった。
また「○○さん」のお話がしたいと言いながら。

まだ幕は降りない。

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