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「陰翳礼賛」を読んで

 芸術鑑賞というものが楽しかった記憶が全くない。小学校の時に授業で訳のわからない絵やら書道やらを見せられ、3本罫線が入った手のひらサイズのメモ用紙を配られてそれすらも埋められず、苦肉の策で「楽しかったです」と一言書いて提出したら放課後呼び出され、やる気があるのかと説教を喰らった記憶しかない。

高学年になってくるとさすがに、作品の実況をして「楽しかったです」で締めるという小手技を覚えたが、果たしてあんなもので感受性やら心やら、その類のものは育っていたのだろうか。

 大学に進学し、「言葉ではなく心で感じる」ということを大真面目に実践できる人種がいたことはなかなかの驚きだった。あれは子供の純真さに無駄に夢を見ている大人に、子供が辻褄を合わせに行ってあげるものではなかったのか。馬鹿正直に真剣にナチュラルにそんなことをやってのける人種がいたのか。

しかし残念ながらこちとらそんな特殊能力など持っていない凡人なので、背景知識というツールを用いないと芸術なんてものは理解できない。無論知識だけで芸術を見ようなんて思っていない。ただ、知識というツールで取っ掛かりを作らないと、芸術のもつ芸術性にたどり着けない。心と心の対話の前に、芸術の中の心のことを認識するためにこの本はぴったりなのである。

 「陰翳」をきちんと読めただろうか。「いんえい」である。即ちかげのこと。日本の気候から日本人の暮らしの中に影が生まれ、影を貴ぶ文化が形成された様子が実に鮮やかに描かれている。地形、気候から文化が生まれ、文化から芸術が生まれる流れが、生の実例を多く上げながらそこにある。

伝統だとか美であるとか、そんな言葉で書院造を見たところで、それで感じる感動は実に浅はかなものだったという自覚がじっくりと創出される。この本によって日本文化の本当の姿が現わされ、何も知らずにガラスケースの中の芸術品を眺めることの空虚さを思い知らされると同時に、日本の芸術という領域について視界が晴れていく。

加えて、本来は耽美という言うべきなのだろうか、谷崎が見せつける美しいものへの変態じみた執念が時折滲み出てくるのがおもしろい。その観察眼、描写力実況力、さらに人の身体になるとそれがだだ漏れになる。淡々と考えを書いていた序盤から、筆がのってくるとドン引きレベルの熱量になっていくさま、物静かな教養書から官能小説一歩手前の文学作品へとなんども大きく揺れ動く様子は他ではなかなか見れない光景であろう。

照りのある漆塗りの器、能の白い顔、その形になったのは全て理由があり、そしてすべてが陰翳に収束していく。彼の仮説が正しいか分からないが、日本に住んでいる身として、教科書上の抜粋ではなく、この本を端から端まで読んでみてよかったと思う。



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