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拝金主義の内の輝き

 大晦日の昨日、久々に高い寿司を食った。高いとはいえ寿司パックだが、海鮮の専門店で買っただけあって並みのスーパーの寿司パックよりは断然うまい。三方を海で囲まれていた地元より、海なし県にいる今の方がなぜか良い寿司を食っている気がする。

普段スーパーでレジを打っていると、どうしても色んな人をみる。金を持っていそうなひと、そうでもなさそうなひと、様々な人が買い物に来るが、年末に都会から帰省しているであろう現役世代のハリをみると、普段は気づけないこの町のくすみが分かる。

年末の商戦に合わせて総菜の単価がぐっと上がった。具体的にいうと桁が一つ増える。容器の面積が広がっているのもあるが、やはり中の様子が違うように思う。鮪が深い赤に澄み、表面はしっとりと光を返す。明らかに普段のしなびた、くすんだ赤の長方形のそれではない。

ばるんと張った生エビも、自身から滲みでる脂で照り映えるブリや大トロも、客のかごの中にいる大皿の寿司たちはどれも生命感の名残の艶を纏っていた。

 先月、都内に出向く機会があった。乗り換えのために東京駅に降りる。埼玉方面から降りて千葉方面に向かうのはまだ慣れない。ここ数年散々歩いたと思っていたこの駅も、埼玉側のエリアでぐるぐると歩き回って自分の居場所を見失ってしまう。

しかしさすが日本の交通の中心だけあって、店々にはきらびやかな食がケースに並ぶ。都会の人間の欲にはよく「キラキラ」という形容詞が付きまとうが、艶を纏わせ人の目に訴えかけようとする料理と、それをさらに飾り立てる照明の数々、必要以上の明るさで味覚とは別の欲を刺激しようといているようだった。

とはいえ街中の競争を勝ち抜き駅の中に進出した高単価の店は、仕事の輝きがモノの中に宿る。資本主義拝金主義とくすんだ地方都市の一角から想像で揶揄するのは簡単だが、いざこうして見てみると、過酷な飲食店営業はモノの質の高さと営業力双方で戦っていかないとならないわけで、そうして生き残った料理は外側の装飾に紛れながらもなにか別の存在感を放っている。

無論そうした装飾は料理を際立たせるためにあるのだろうが、そんな光はなくとも、自力で人の目に留まる輝きをはなっているようで。

 改めて値段とは。カネの流れは多くのからくりが存在するから、値段が高いものを一様に賛美はできないが、値段が下がりに下がった末端の世界に光はない。一部の国では水より安く売られるコーラは資本主義の影の象徴だが、自販機よりもコンビニよりも安く済むスーパーやドラッグストアの最安値、削減のみを追い求めたその世界にモノを買う楽しみがどこにあるか。

生活のすべてに貨幣が浸透しきったこの世界では、今さら資本主義の闇だけをやり玉に挙げてそれを批判するのは難しい。働いて稼いで、それで消費をすることは今さら非難したところで逃れられない。安易な資本主義批判は時に資本主義が呑み込んだ生活の輝きすらも覆い隠す。

実態のある輝きと空虚なキラキラ、この二者は街中で入り乱れて絡み合って存在している。前者に惹きつけられる以上、都会で行われるカネの流れと競争をむやみに突っぱねられないのだ。競争に疲れた先人たちの息切れで曇っていくレールの先、このまま進路を変えずに突き進むつもりが自分にあるのかはまだ分からない。

 

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