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原貫太様への献策

 以下は、自分が先程、応援している「原貫太」さんというフリーランスの国際協力師への献策と、それに関連する拙作の説明・宣伝である。

1『あなたとSDGsをつなぐ「世界を正しく見る」習慣』

1.1.1 謝辞

 原貫太様、以前、前述の手紙を出させて頂いたLVNです。本日、貴作の『あなたとSDGsをつなぐ「世界を正しく見る」習慣』を完読いたしましたので、その書評並びに献策、そして、それに関連する拙作の説明・宣伝等をさせて頂きます。

 まず、結論としては、貴作の作品は、「情報」及び「知識」並びに「気付き」を、読者の皆様方に提供して下さる、力作であると思います。しかし、この力作は、前述の情報・知識・気付き以外にも、大切なものを、読者に伝えることが出来た実感しております。それは、原様の「思念」です。

 自分自身は、既に貴作で著述された情報・知識・気付きは、既に存じておりましたが、私は、原様の「経験」及び「思念」並びに「解釈」を知るために、そして何よりも、原様の応援をしたいために、購入させて頂いた次第ですが、その願望は十分に叶いました。誠にありがとうございます。

 皆さんも、ぜひ購入して下さいませ。

1.1.2 賛辞

 ここでは、貴作への自分の賛辞を述べさせて頂きます。貴作の素晴らしいところは、主に以下の四つが挙げられます。

㈠寄り添う親近感や真摯ぶりのある感情的な文章を通じて、原様の心意と、無言かつ間接的に、本当に交流できている。
㈡簡明にして、経験的な蘊蓄や碩学があり、情報の共有だけではなく、情念(思い遣りや誠実に満ち溢れた苦悩や疲労等)の共有が出来ている。
㈢対話や質問のような雰囲気や構成の文章となっており、読者に深い印象を残している。
㈣極めてネガティブなことに、まだ深いとは決して言えないものの、確りと述べている。これは、数多く出版されているSDGs関連の本には、実は意外なことに、あまり出来ていない、あるいは、しようとしていないことです。
 この点は、はっきり申し上げますと、原様の本気度と真摯、そして善き個人の自由と人間関係があるという明確な証拠と言えるのではないでしょうか?

 他の多くの本がそうでないのは、もしかすると、貴作が本文中に指摘した事例のように、商業や金銭に宣伝等の圧力で、それが出来ない、あるいは、しないかもしれません。

 自分自身は、実は、SDGsの理念は、達成不可能な絵空事であるという事実であると認識しつつ、熱烈に共感・支持していますが、SDGs実現を掲げる、ほとんどの国際風潮や企業宣伝に対して、強烈な不信感・嫌悪感を懐いています。もちろん、前述のような推察から、多くのSDGs関連の本に対しても、強烈な不信感・嫌悪感を懐いています。

 ですが、貴作ともう一つの著作『SDGs時代のグローバル開発協力論―開発援助・パートナーシップの再考』は、例外であり、逆に、多くのインスピレーションを、おかげさまで獲得することが出来ました。

 上記の著作は、研究や報告等の専門的な論文集であり、確かに読むのは、大変な労力を要しますが、貴作と同様、経験的な蘊蓄や碩学があることや、極めてネガティブなことに深くかつ実直に触れています。つきましては、貴作と合わせて、読者の皆様方にご紹介させて頂きました。

 ちなみにこちらの著作は、Amazonを見ればすぐ分かりますが、あまり知られておらず、不人気なようです。何ででしょうかねえ…やはり、自分の推察の通りでしょうか?・・・

1.2.1 協力的な批判

 ここからは、まず、貴作への協力的な批判を、そして、貴作への発展的な批判をさせて頂きます。

 まず、原様、貴作の題名は『あなたとSDGsをつなぐ「世界を正しく見る」習慣』とありますが、p.10-p.12以外は、SDGsに関する、直接的な言及は、一切ありませんでした。

 もちろん、主題である原様のご経験とご見解を交えた簡明な告発的・啓蒙的な情報共有は、間接的には、間違いなくSDGsに関連しておりますが、しかしこれは、私見としては、不十分や不備と言わざるを得ないです。

 p.12に、原様はこう著述されました。

内から湧いてくる問題意識を持ってSDGsに目を向けることです。

 ですが、そもそも、これは、「SDGsは善い事である」という命題を真として著述されていらっしゃると思いますが、その命題が真であるとするには、読者の皆様方並びに原様自身が、「安全・健康・平和に生きることは善である」という根本的な命題並びに観念を持つことが、大前提でしょう。

 この命題並びに観念は、最初から当たり前になっているでしょうか?いいえ、そうではないでしょう。そのこと自体、原様は、経験的に、自分「LVN」並びに多くの人々よりも、十分理解していらっしゃることでしょう。

 安全とは?健康とは?平和とは?生きることとは?善とは?なぜ?何を?誰と?どうする?・・・そうです、原様、本気で考え始めたら、私達は、本当に知らない、いや、知ろうとしていないということが、満ち溢れているのです。

 根本や起点の命題を確立させなければ、内界から問題意識は湧いて来ないことでしょう。なぜなら、「問う」のは、「既知を以て、より知りたい。」という欲求や意志が無ければ、行われないものなのです。ですから、

 上記の出版社からのこの二つの宣伝には、謹んで、反対と不満を述べさせて頂きます。つきましては、原様はもちろんのこと、原様を特に大いに応援・支援して下さっているオンラインサロンの方々や、原様を持続的に経済援助をして下さっている方々には、もっと根本や起点の命題の追究・創造・確立等に注力して下さるよう、お願い申しげます。

 この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。まず、肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。また、「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もない事から偽とされる。さらに、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気付く事があるから、計算(2+3=5のような)も排除される。そして、究極的に、真理の源泉である神が実は欺く神で、自分が認める全てのものが悪い霊の謀略にすぎないかもしれない、とされ、このように、あらゆるものが疑い掛けていくのである

 原様、「安全・健康・平和に生きることは善である」という命題は「真」でしょうか?また、「偽」であるのでしょうか?

 もし「真」であるとしたら、それはなぜでしょうか?また、その現実化のためには、どうしていくべきでしょうか?

1.2.2 建設的な批判

 原様に、以下の四人の先哲を御紹介させて頂きます。

バルトロメ・デ・ラス・カサス(Bartolomé de las Casas, 1484年8月24日 - 1566年7月17日)は、16世紀スペイン出身のカトリック司祭、後にドミニコ会員、メキシコ・チアパス司教区の司教。当時スペインが国家をあげて植民・征服事業をすすめていた「新大陸」(中南米)における数々の不正行為と先住民(インディオ)に対する残虐行為を告発、同地におけるスペイン支配の不当性を訴えつづけた。主著に『インディアス史』、『インディアス文明誌』などがあり、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』でも有名。生前から激しい批判を受け、死後も相反する評価を受けることが多かった。「インディオの保護者」などとも呼ばれる。

バルトロメ・デ・ラス・カサス - Wikipedia

 ラス・カサスはその死後も、長年に亘って評価されると同時に誹謗されて来たが、彼が生きていた時代は、ヨーロッパ中心主義が常識だったが、その常識に懐疑的かつ良心的に追究した先見性と高い問題意識、さらには、自らの命の危険を顧みずに、果敢断行した勇気が高く評価できることであろう。

 原様、あくまで私見にして私意でございますが、「気付く」だけではなく、余りにも不十分です。「驚倒」・「衝撃」・「絶望」・・・本気で告発や啓蒙するのであれば、ここまでやるべきではないでしょうか?少なくとも、自分自身はそう思います。

 自分のベトナムもそうです。改善や進歩はあるものの、昔から今現在までも、旧弊と新たな病弊が蔓延しております。

著者タイン・ティンは抗仏・抗米戦争に参加したあと一貫して権力の中枢にあり、ベトナム共産党の機関紙『ニャンザン』の副編集長まで務めた生粋の幹部党員でした。しかしベトナム経済の停滞、人々のモラルの低下、党幹部の腐敗に危機感を持った彼は、一九九〇年パリで共産党指導体制を批判する文書を公開します。怒った党は当然彼を除名。翌一九九一年、タイン・ティンは国の将来を憂い、さらに激越な内部告発・憂国の書を出版し、世界各国のベトナム人に大きな衝撃を与えました。

 原様、私見並びに私意として、願わくば、どうか、甚大かつ激越な批判や告発の書を、長年を掛けて著述するのは、いかがでしょうか?

 そして、「批判や告発」という「否定や破壊」の後には、「革新と創造」が必要・重要でしょう。

ロバート・オウエン(Robert Owen、1771年5月14日 - 1858年11月17日)は、イギリスの実業家、社会改革家、社会主義者。人間の活動は環境によって決定される、とする環境決定論を主張し、環境改善によって優良な性格形成を促せるとして先進的な教育運動を展開した。協同組合の基礎を作り、労働組合運動の先駆けとなった空想社会主義者。「イギリス社会主義の父」とされ、初めて本格的な労働者保護を唱えたとされる。

ロバート・オウエン - Wikipedia

田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)は、日本の幕末から明治時代にかけての村名主、政治家。日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件の重鎮であり[1]明治天皇に直訴しようとしたことで有名。

田中正造 - Wikipedia
潮流(明治34年)▷天皇に直訴する田中正造議員 | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives (jaa2100.org)

足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)または足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県群馬県渡良瀬川周辺で起きた、日本で初めてとなる公害事件。

足尾鉱毒事件 - Wikipedia

 原様、前回のように、私達は「哲人民」となっては、善き建設的な破壊と善き革新的な創造を実現して、率先垂範していくべきではないでしょうか?

2 拙作の説明と宣伝

 ここからは、拙作の説明・宣伝となります。

 原様、自分は、まだ二作品目・三作品目の著述後に、貴作を最重要参考文献にして、以下の作品を著述させて頂きます。前述の通り、その時に、正式に仕事依頼として、後書きの執筆を、謹んでお願い申し上げます。

3 結語

 最後に、原様に、拙作から引用して、謹んで、助言させて頂きます。

 まず、生命の誕生は、国家の存続や発展の始まりである、と同時に、退廃や滅亡の遠因にもなります。なぜなら、人心は貪欲(どんよく)、地利は無常、資源は有限であり、過不足は、戦争の遠因となり、過剰は、堕落の遠因となるからです。
 故に、意識の徳化が必要でしょう。そのためには、次のように、意識を構成する、「本能・超自我・情知・自我」を、鍛錬していくべきだと思います。

一、快楽を抑制することで、危険を回避し、不快に挑戦することで、安全を獲得する。こうして、本能に駆り立てられないようにしつつ、本能を研磨する。
二、失敗を肯定することで、挑戦を促進し、成功を否定することで、反省を奨励する。こうして、目標に固着しなくなり、自ら目的を追求するようになる。
三、理知で、感情による失敗を反省し、感情で、理知による成功を祝福する。こうして、自分自身の欠点や弱点に気づいて、己の理解者が自分自身となる。
四、意識は事象であり、自我も事象であり、どちらも内界の働きではあるが、その働きを司り、形而下の脳と形而上の気も司る、「主」と言う事物を生す。

 そして、国家と国民意識において、拒絶し続ける寄生は、堕落を招き、誤解し続ける独断は、暴動を招き、迷走し続ける自立は、詐欺を招き、否定し続ける反発は、停滞を招き、流離し続ける哲学は、不穏を招き、固着し続ける経営は、退廃を招きます。これらは、心・財・力が通じ合っていないからであり、諸事業の大失敗や崩壊の原因です。
 故に、親愛関係の構築が必要でしょう。そのためには、次のように、「五徳三道」を実践していくべきだと思います。

「温」即ち、心で共感力を、脳で理解力を、神経で瞬発力を、血流と態度や言動で行動力を鍛錬して、他者を思い遣ること。
「良」即ち、自他の不遇を以て良心を、自他の不安を以て良識を、自他の無責任を以て良知を研磨して、率先垂範となること。
「恭」即ち、博学でありながらも無知を、博習でありながらも無能を、博識でありながも不可を、博覧でありながも不明を、忘れずに自ら能く覚えること。
「倹」即ち、学問や教養の費用を増やして、娯楽や社交の費用を減らし、遊楽の成果を多大にして、哲学の実績を広深にし、質素を以て富貴を成すこと。
「譲」即ち、徳を優先して不利になり、道を遵守して無益になり、義を死守して冷遇に耐え、法を実施して危害に備え、礼を体得して苦難に臨むこと。
「道」即ち、温良を以て人心を、恭倹を以て人才を、譲を以て仁を育むこと。

『愛国心 伯胡への書簡集』「書簡㈠ 独立 上(存在の生成)」p.20-p.21


ありがとうございます。心より感謝を申し上げます。