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第六作品目『社会善 思想並びに良心の自由の個人的かつ主体的な実践』

1 『社会善 思想並びに良心の自由の個人的かつ主体的な実践』の発売

 平素より、拙ブログ・拙サイト・拙作をご覧になって下さっている読者の方々に、深謝の念を申し上げます。
 実に皆様方のおかげ様により、この度、遂に第六作品目『社会善 思想並びに良心の自由の個人的かつ主体的な実践』が、正式に発売することが出来ました。謹んでお礼を申し上げます。
 なお、題名のアマゾン表記にミスがあります。「の」ではなく、正しくは「な」です。申し訳ございません。

2 『社会善 思想並びに良心の自由の個人的かつ主体的な実践』の紹介

 拙作は、東アジアの名著『論語』と南インドの名著『ティルックラル』の様々な思想を批判的・発展的・独創的に継承しては、融和させて、新規に完成させた哲学・思想の短文集です。この短文集では、社会哲学と社会思想を中心としつつも、多岐に渡る哲学や思想を論及しており、そしてそれを通じて、「社会善」の実現とその持続を誠に熱望しております。
 また拙作は、こよなく愛する我が祖国ベトナムの近現代史を強く批判や非難に猛省しては、今現在で成していくべき改善や進歩等の要となるような提言を数多く著述して、未来にて改善や進歩等が着実に成されて、国家の利益並びに人民の幸福に貢献できることを誠に熱望しております。この志は、こよなく愛する第二の祖国日本にも向けております。

『論語』

孔子とその弟子の言行録で、儒教の根幹をなす聖典として、唐代には『孝経』とともに科挙に用いられ、宋代の朱子は論語集注を著すなど、古くから東洋で最も重んじられてきた書。編者は明らかになっておらず、漢代にまとめられたと考えられる。日本には応神天皇の代(285年)に百済から伝来し、日本の政治・文化にも大きな影響を与え続けた。中国思想・文学をはじめとする東洋思想や、日本の歴史・文化を考察するうえで、第一に熟読が必要なのが『論語』。本書の執筆担当者は親しみやすい解説と評釈によって、現代の学界と読書界に再認識してもらおうと努力した。

道徳と経営は合一すべきである。日本実業界の父、渋沢栄一が、後進の企業家を育成するために、経営哲学を語った談話録。論語の精神に基づいた道義に則った商売をし、儲けた利益は、みなの幸せのために使う。維新以来、日本に世界と比肩できる近代の実業界を育てあげた渋沢の成功の秘訣は、論語にあった。企業モラルが問われる今、経営と社会貢献の均衡を問い直す不滅のバイブルというべき必読の名著。

経営者の最高峰が主張する論語と算盤一体論。半部の論語で身を修め、半部の論語で事業を経営し、論語と算盤、道徳と経済とを自らの体験に基づいて一体とした著者が、大正末期その貴重な経験談や幕末明治の政財界の人物評等、数々の余話を交えて講述した名著"渋沢論語"の復刻新版。まさに現代の病弊を救う活学の書である。

『史記』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』など多くの史書をもちいて孔子の生涯と言葉を再構成した類例のない孔子伝。また、孔子の思想が日本やほかのアジアの国に与えた影響についても広く解説。

「孔子」という名に聞き覚えがあったり、説法で有名になった人だということは殆どの人が知っています。しかし、その教えが長い間、世界中の人々に影響を与えてきた人物である割には、彼が一体どういう人物であり、何を説き、なぜその教えを説いたのかを知っている人はあまりいません。ブライアン W. ヴァン・ノーデンが孔子の神秘を解明していきます.

『ティルックラル』

南インドのタミル地方で、今もなお誰もが口にする1300余の箴言。6世紀頃につくられ、法・財・愛をテーマにインド的思考を結晶させた聖なる短詩(ティルックラル)を、詳細な注釈で読み解く。

3 拙作の概要

 以下は、拙作の解題の一部であり、拙作の概要となります。文献を紹介しつつ、著述します。

 こよなく愛する我が祖国ベトナムでは、次のような言葉がある。
“Học, học nữa, học mãi.”
「学んでは、更に学んで、常しえに学ぶ。」

 ベトナムにおいて、一般的にこの言葉は、ウラジーミル・レーニン議長の言葉として喧伝されては、様々な解説や詳解等が施されて、学問の標語として取り上げられている。実際のレーニン議長の言葉は、以下の通りである。
In order in renovate our state apparatus we must at all costs set out, first, to learn, secondly, to learn, and thirdly, to learn, and then see to it that learning shall not remain a dead letter, or a fashionable catch-phrase (and we should admit in all frankness that this happens very often with us), that learning shall really become part of our very being, that it shall actually and fully become a constituent element of our social life.
『Lenin Collected Works Volume 33 August 1921-March 1923』(David Skvirsky⦅訳・編集⦆、George Hannan⦅編集⦆、Moscow: Progress Publishers、1973、BETTER FEWER, BUT BETTER、p.488-p.489)
我等の国家機構を刷新するためには、我々は万難を排して着手しなければなりません、先ず第一に、学ぶ、第二に、学ぶ、そして第三に、学ぶ、ということに、そしてそれから、学習が、死んだ文字、もしくは流行の標語のままにならないよう、注意しなければなりません(そして我々はあらゆる全ての率直さを以て、これが我々の所為(せい)で非常に頻繁に起きてしまうことを認めるべきです)、[そして我等の国家機構を刷新することで、]学習は実際に我々の存在自体の一部となり、それが実際に、そして完全に、我々の社会生活の構成要素の一つとなるのです。(私訳)

 しかし、「学んでは、更に学んで、常しえに学ぶ。」と言う言葉は、恐らく上記のレーニン議長の言葉から誕生した標語ではなく、そしてレーニン議長の言葉もまた、以下の通り、ロシアの代表的な劇作家・小説家であるアントン・チェーホフ先生の『My Life』と言う著作の中の言葉に基づいて誕生したものではないかと考えられる。
We must study, and study, and study and we must wait a bit with our deep social movements; we are not mature enough for them yet; and to tell the truth, we don't know anything about them.・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Our duty is to study and to study, to try to accumulate as much knowledge as possible, for genuine social movements arise where there is knowledge; and the happiness of mankind in the future lies only in knowledge. I drink to science!
My Life (by Anton Chekhov, translated by Constance Garnett) #VII - Wikisource, the free online library
私達は学んで、そして学んで、更に学ばなければならず、そして私達は、我々の狡猾(こうかつ)な数々の社会運動と共に待機しなければなりません。私達はそれら(我々の狡猾な数々の社会運動)[を成すの]にまだ十分に成熟しておらず、そして真実を言いますと、私達はそれらについて何も知らないのですよ。(中略)私達の義務は、学んで、そして学んでは、可能な限り数多の知識を蓄積するのに挑戦することです、正真正銘の社会運動が、知識の在る所で起こり、そして未来の人類の幸福は唯(ただ)知識に由る為に。私は科学に乾杯します!(私訳)

 『大パリニッバーナ経』(6:7)に「そこで、尊師は修行僧たちに告げた―『さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、“もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい”と。』これが修行を続けて来た者の最後のことばであった。」(中村元先生の訳文)とあり、『荀子』(勧学)に「学不可以已(まなぶのをやめることなかれ)」とあり、そして『論語』(公冶長5:15)に、「鋭敏にして好学であり、下の人々に問うのを恥としない、これが『文』のいわれだよ。」とある。「Học, học nữa, học mãi.」(学んでは、更に学んで、常(とこ)しえに学ぶ。)という言葉は、けだし至言であり、そして、実に含蓄のある格言だ。思うに、鋭敏になったならば、学んでそれを修養や鍛練に応用し、好学になったならば、更に学んでそれを喜び楽しみ、常しえに学べば、下の人々に問うのを恥としないどころか、数多の新しさと深き喜びや楽しみ等を得るのだ。

(中略)

 結局のところ、思うに、我が祖国ベトナムは、未だ未だあまりにも、寡聞浅学で浅学短才な国家であり、歴史であり、民族であり、そして、そのような「国運」即ち「天命」を背負った、不運で未熟な共同体だ。数多くの悪習や旧弊に宿弊は、着実に減少し続けているとは言え、まだまだ根強く残っており、また、新たな社会問題に病弊や国難も多発している。

 故に、自分は、誠に自重しては、先哲達が遺して下さった威徳を重宝して、忠信を主とし、そして、学んでは時に習って喜びで、「遠方」即ち「死」から「友」即ち「徳」が来るようにして楽しみ、「忠信を主とする者には、義憤はあっても私怨は無い。」というように、人に知られないことを憂患せずに、人並びに己を知らないことを憂患していく。

 善言や正論に忠告や説教等は本来、決して卑しいものではなく、むしろ誠に尊いものである。それが卑しいものになってしまうのは、大衆がそれらを卑しむからである。しかし、大衆のほとんどは、善言や正論に忠告や説教等を「嫌う」(動詞)のではなく、「嫌い」(形容動詞)なのだ。これもまた、「天が命じたもの」即ち「性」つまり「破壊を怖れる知的かつ無知な自己防衛の本能」であろう。

 だからこそ、『荀子』(不苟)に「之(誠)を操守かつ体得すれば軽快になり、軽快になれば独りでに行い(仁を守って義を行うこと)、独りでに行なっては止まなければ、これこそが「済美」(美徳や完遂/遺徳の継承)であるのだ。済美しては素材(本性)を済美に蕩尽(とうじん)すれば、[素材は]成長して変遷し、そして最初に決して戻らない、これこそが『変化』であるのだ。」とあるように、「学んでは、更に学んで、常しえに学ぶ。」を、自分は誠に実践していく。誠を以て学ぶことで、誠に仁を守り育んでは、誠を以て更に学ぶことで、誠に義を行い成して、誠を以て常しえに学ぶことで、誠に済美しては、済美に蕩尽とうじんして変化し続ける。『論語』(雍也6:20)に「[学徳を]知る者は[学徳を]好む者に及ばず、[学徳を]好む者は[学徳を]楽しむ者に及ばない。」とあるが、自分は、学ぶのを知っては、好んで、楽しみ、更には愛して、そして最期の最後の瞬間まで常しえに学ぶことが出来るように、常に奮励努力と決行し続けている。

 さて、『老子』に『荘子』や『列子』等、『中論』や『般若心経』等、そして、フリードリヒ・ニーチェ先生やアンリ・ベルクソン先生等のような、「哲学的」や「知性的」な反知性主義を除いて、反知性主義を確りと批判や非難しては、数多の深い批判や猛省を行って、「知を知る」並びに「学を学ぶ」を行うことで、必ずや多発かつ激増し続ける「社会悪」を、不断の知と学を以て、可能な限り抑制や減少に解決や克服等し続けつつ、生知安行の批判的な善用・学知利行の発展的な助勢・困知勉行の持続的な啓蒙(けいもう)を誠に成していき、そして、困り果てても、ずっと学ぼうともしない者達には、『論語』(陽貨17:3)の「ただ上知と下愚とは移らず」という寸鉄を以て、不可としては、不信・不問・不干渉等を貫徹しては、思想並びに良心の自由を個人的かつ主体的な実践して、短小で刹那ながらも、確実にして至誠の社会善を、着実に成し遂げていくことを、自分は誠に志している。

 こよなく愛する我が第二の祖国日本の『日本国憲法』(第19条)にこう述べられている。
 
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。 

 自分は、志を以て、太古の賢哲「ティルヴァッルヴァル」(திருவள்ளுவர்)先生の著作にして、タミル文学の最も高名な傑作の一つである『ティルックラル』(திருக்குறள்)を最重要参考文献としては、標題紙の裏面と以下に記述している通り、『ティルックラル』の言葉とその思想を、『論語』の各章の言葉とその思想と共に、批判的・発展的・独創的に学び受け継いで、こよなく愛する我が祖国ベトナムで起き続けた三度に亘るインドシナ戦争とその戦後の歴史を、懐疑的・批判的・建設的に学び問い、そして良心を誠に確りと念頭に置きながら思想を成しては、自由を以て良心を育んで、以下の通り、思想並びに良心の自由を、個人的かつ主体的に実践し、社会善まなびしるを成していく。

(中略)

 こよなく愛する我が祖国ベトナムの三度に亘るインドシナ戦争での全体的な戦勝は、誇りや栄光に堅忍質直等と同時に、恥や堕落に無学無知に溢れたものであった。前者を誠に継承や体得しては、後者を誠に批判や非難して、数多の新たな苦難・困難・危難等に誠に臨んでいく。こよなく愛する我が祖国ベトナムが、そして、第二の祖国日本も、このように歩み進むことを、切実に願っている。

4 拙作の一部の紹介

 拙作の各章から一部を抜粋して、以下の通りご紹介させて頂きます。

三つの心を以て勤勉になり、そして自然と調和しては、社会と和合して、己の運命と和む。
法(アラム)を明らかにしては天命を畏れる「温(やさしい)にして厲(きびしい)心」・財(ポルル)を豊かにしては大人を畏れる「威(いかめしい)にして不猛(あやうくない)心」・愛(カーマム)を誠にしては聖人の言葉を畏れる「恭(うやうやしい)にして安(やすらか)な心」。

神は、法(アラム)に対する誠心誠意・法(アラム)の探究心・法(アラム)の研究に実践の奮励努力・法(アラム)への遵守かつ猛反発・法(アラム)の受容と摸倣等の作用に対する反作用であり、神が善か悪かは、人意に拠る。

立派な加害者もまた、存在する。人と己の所為を誠に弁別して、誠に猛省や懺悔等する徳。
誠実な犯罪者もまた、存在する。懐疑心や批判的思考に主体的な正義感と、克己心ある徳。
愚劣な被害者もまた、存在する。縛られているのに解かず、溺れているのに泳がない無学。
悪徳な人気者もまた、存在する。批判を封殺し、否定を全否定し、無学を正当化する扇動。

情念は唾液・精液・愛液等を美味に快楽として爆発するが、理智はこれらが液体と物質であると言う事実を改めて深く認識する。理智よ、愛(カーマム)から、蘊蓄(うんちく)や造詣に哲理等を学んでね!
理智は親交・互助・信愛等を物質に本能の具現化として観、情念はこれらを解釈しては、活発的に修飾のある多様化を実現する。情念よ、愛(カーマム)から、面白味や美に目的等を学んでね!

大いなるかな、天は!光も色も、音も声も、風も匂も、材も味も、形も対も無い。
大いなるかな、魂は!視覚を超越する達観、聴覚を超越する敏活、嗅覚を超越する熟慮、味覚を超越する豊富、触覚を超越する気化。

喜悦に知識を数多く積み重ね続けながら、激怒に理解を数多く積み重ね続けながら、悲哀に認識を数多く積み重ね続けながら、愉楽に受容を数多く積み重ね続けながら、大人に成る。

悪意も善意も先天性には存在しない。愛(カーマム)は、知と学に命と生を辛くも幸せに愛して守る。

血行が良好だと体温が上昇し、性交が相愛だと心温が上昇していく。修養と体操の結実。
徳行が誠実だと温厚が進展し、親交が相補だと温顔が進展していく。修徳と教養の結実。
施行が慈善だと温良が成功し、国交が互助だと温習が成功していく。修好と猛省の結実。

終わらないのは時間で、終わるのは生存や生命・団体や組織・社会や国家、そして、時代。
止まらないのは空間で、止まるのは交流に呼吸・順調に通常・繁栄に成功、そして、成長。
結局のところ、最終的には、威徳は時代を達観して、社交から無人へと移る徳であり、また成長を完遂して、名利から無縁へと移る徳である。こうして、より一層威厳が増しつつも、より一層安全が確かになる。「功成り名遂げて身退くは天の道なり」と「有終の美」あれ!

お互いに、「これ以上は駄目!」と口は必死に嘘を吐くも、体は正直に更なる快楽を求め、心は本当に幸福であり、魂は体から脱しては大いに躍る。これが、円熟した性交である。
お互いに、「これ以上は無理!」と口は疲労感から言うも、頭は全力で更なる知識を求め、心は本当に幸福であり、魂は言から脱しては一気に昇る。これが、円熟した共学である。

総じて、男が女にその容姿・年齢・体重等について尋ねられると、極めて不快になり、世間もその言動を厳しく咎める。しかし、なぜ性別が逆転すると、もう咎められなくなるのだ?
強も弱も、上も下も、大も小も、多も少も、広も狭も、深も浅も、男も女も、老も若も、その愛好や称賛等に愛情があり、その批判や非難等に正義があり、愛情や正義等に誠実あれ!

瞳は心と体の最も大きくて深い架け橋の一つ。黙りつつも心の中で独り言を発し続ける知。
涙は道と徳の最も大きくて深い架け橋の一つ。黙りつつも道の中で苦しみに克ち続ける徳。
息は時と意の最も大きくて深い架け橋の一つ。黙りつつも時の中で移ろいと和し続ける意。

「不断の厳戒・学問・勇断、これらは地上の支配者に常在しては決して離別しない。」と言われているが、ああ、もう君主制も独裁制も終焉させて、自由民主の国民主権を実現しようではないか、人民よ!独立と自由ほど尊いものは無い、国家も人民も、そして、個人もね!

情操教育は誠に偉大だ…道徳的にも美的にも知的にも宗教的にも、純化かつ多様化、そして複雑化かつ高度化していく、感情に情念、理性に理智、意思に意志、生命活動に哲学活動…
道徳や倫理を以て、自治しては、自敬して、克服していく。教育よ、無為もまた大切だよ!
芸術や審美を以て、自信しては、自愛して、感激していく。教育よ、無益もまた大切だよ!
知識や学識を以て、自学しては、自習して、啓発していく。教育よ、無用もまた大切だよ!
祭祀や崇拝を以て、自問しては、自答して、躍動していく。教育よ、無知もまた大切だよ!

ほとんど全ての人災を激減させたり、阻止したり、解決したり、根治したり等するには、主に、修徳を以て相思相愛に自存自衛を、講学を以て衛生管理に安全管理を、徙義を以て博学審問に熟慮断行を、改善を以て節倹力行に進取果敢を、貫徹かつ継続していくことである。
貪欲・無学・我執・停滞、これらが主に、人災を激増・拡大・進行・深刻化等させていく。

数多の若い美少女達と共に性交を大いに楽しんでは、次々と膣内射精する、これが、一時の甘美と一生の惨禍。これと類似するように、数多の弱小国を侵略しては、次々と完全勝利を収める、これが、一年の栄光と一世の惨禍。修徳は、内容と時間を洞察しては善処する道。

形而上学を以て真理に追求し、形而下学を以て実用を追求し、学徳を以て幸福を追求する。
実用は追求しては達成できる。幸福は追求しては実現できる。しかし真理は追究しても無。
それでも、余りの嬉しさに涙が多く出るように、不可能の虚しさに志が篤くなるのである。
真理の認知は不可能であり、真理の追求は無意味であるが、真理に追究する志が篤くなる。

国家を防衛・救済・解放したり、人民を援助・救護・慈愛したり等した英雄達を祭り上げておきながら、政府は無理解・無責任・無関心のままであり続け、人民も無知・無学・無徳のままであり続ける。結局のところ、責任も義務も、そして善美も仁義も、利権と利欲に依って取捨選択される。国情も民情もどうでもいい、まずは天道と人道を善く学び知ることだ!

実に惜しいことだなあ、仕事で得た数多の善さや正しさに奮励努力等を、私生活に私利私益等でも実用や応用しては発展させることが極めて稀であるのは…連繋した利己心を成そう!

愚人は努力も学習もせずに、「何で無いの?!」や「未だなの?!」等と喚き散らす障害。
悪人は努力や学習等を積み重ねて、「出来た!」や「もっと出来る!」等と爆笑する害悪。
凡人は努力や学習等を最低限だけして、「これだけか…」や「またか…」等と苦しむ未満。
善人は努力や学習等を重視して、「まだ出来ない…」や「もう少しかな…」等と悩む栄養。
賢人は孤高や学問等を愛好して、「さあもっとだ!」や「まだまだだな!」等と喜ぶ秘薬。

「忠愛・理解力・明快さ・貪欲ではない」、この四つの結実を持っては、これらからも成し続ける者は、仕事や公事だけではなく、遊楽や私事でも、後に暗躍しては大成功を収める。

精子や卵子に本能や血縁等が無くても、富貴や名利に刺激的等でなくても、愛し合えるよ!

大量発生したネズミとその雑菌・繁殖力・咬みつき等の如く、汚言・汚行・汚習が甚だ多く、人口が多い上に激増し続け、数多のとんだ言い掛かりを付け続けて来る、貪欲で敵愾心てきがいしんに満ち触れた危国には、コブラとその隠密かつ慎重な行動力・攻撃的かつ瞬発的な攻撃力・精察や洞察に一撃必殺等の如く、忍耐強い上に方正謹厳であり続けては、武徳の蓄積と武徳の強化に努め励み続けて、智謀と大義を以て情報戦や心理戦に諜報戦を展開し続け、戦争の勃発を阻止し、急に侵略戦争が発生しても、短期決戦で、自軍の完勝と敵軍の自滅を成す。

俺の愛する貴女よ、貴女とのディープキスは誠に甘美だぜ!積み重ねた慎み深さと美徳だ…
私の愛する貴男よ、貴男とのディープキスは誠に安楽だわ!積み重ねた思慮深さと孤高ね…

国基は人民である。だからこそ人民よ!政府の批判や非難等は重要不可欠であり、そして確かに社会正義であるが、もっと重要不可欠なのは自己批判であり、そして修身・修学・修徳等こそが、やがて、そして着実に、確かな国基・正しき国基・善き国基となっていくのだ!

 そして以下が拙作の後書きの一部であり、そして想いである。

 今年の2022年は、ホー・チ・ミン主席が『仕事路線の修正』(Sửa đổi lối làm việc)と言う作品を完成させてから、そして、「1947年の北ベトナムの秋季-冬季戦線」(Chiến dịch Việt Bắc Thu - Đông 1947)にて、フランス軍にベトナム独立同盟会軍が戦略的に勝利してから、遂に75年となる。しかし、こよなく愛する我が祖国ベトナムには、未だに歴史的・民族的な旧弊・積弊・悪弊等が未だに根強く残り続けており、その上、経済的な成長や発展等を遂げ続けているものの、数多の「社会悪」が次々と激増し続けている。故に、個人善が積み重なり続けることで、社会善が着実かつ大切に生み出されては、育まれて、成し遂げられていくことに、拙作が極めて微力ながらも確実に貢献して、まずは、こよなく愛する祖国ベトナムと第二の祖国日本に誠に貢献できることを心から願っている。

5 拙作に深く関連する文献

 まず、拙作は、哲学者を志す二人の男子大学生と女子高生の恋人達によって著述された形を取っているが、その二人は、宮島礼吏先生の名作『彼女、お借りします』の主人公をモチーフにしております。

木ノ下 和也(後ろ姿の男子)と更科 るか(正面の少女)

 もちろん、言うまでもなく、拙作と宮島礼吏先生の名作『彼女、お借りします』とその登場人物は、全く以て無関係であり、別物です。ですが、『彼女、お借りします』は、拙作の創作・著述・完成の大きな原動力(反骨精神)の一つとなりました。この事は、拙作の序文で一部著述しており、また後々の別の拙作『現実』(現実の自伝)で詳述します。ここに、複雑な想いを込めつつ、宮島礼吏先生に深謝の念を示します。

 次に、以下が以下が日本語訳されたベトナム詩集ですが、この作品に対する怒りと悲しみが、拙作の創作・著述・完成の大きな原動力の一つとなりました。自分の怒りと悲しみは、後々の別の拙作『人文佳品』と『現実』(現実の自伝)で詳述します。

 そして、以下が日本語訳されたベトナム人達の良作や日本人の方々の研究書であり、拙作の創作・著述・完成の大きな原動力となりました。

 著者の方々、そして我が祖国ベトナムに関心を懐いては、翻訳や解説に取材等をして下さった研究者の方々、そして出版に関する関係者各位に、深謝の念をここに示します。

5 謝辞

 出版社の方々に深謝の念を示します。

 次に、外勤で一緒に働く、誠実かつ勤勉な医療従事者の先輩方・同輩方に、深謝の念を示します。
 最後に、誰よりも、父に深謝の念を示します。快適かつ確実に生活に、研究・思索・執筆等の諸活動が出来る環境を、経済的にも物質的にも、精神的にも学術的にも、提供して下さっていることに、本当に深謝の念に堪えません。同時に、父方祖母・叔父にも深謝の念を示します。
 そして、逸早く、経済的に完全に自立しては、家計に本格的に貢献できる一員になれるように、奮励努力して創意工夫して参ります。

6 結語

 読者の皆様方、もし宜しければ、拙作のご購入と、ご感想の投稿の程、宜しくお願い申し上げます。
 拙作が、読者の皆様方が、知識の知識・学習の学習を得て、そして長い年月を掛けて、正しい善き知識社会・知識経済の構築と完成にその発展の一員・一因となること、そして愛国心を以て祖国に貢献できることの助力となるのを、心の底から誠に願っております。
 謹んで、御礼を申し上げます。
 そして、これからも、まだまだ余りにも大変拙いブログ・サイト・著作を、真剣な自己啓発や自己批判に、挑戦的な格致日新を以て、改善に発展や進歩させて参ります。

 他の拙作も、宜しければご覧くださいませ。

何卒宜しくお願い申し上げます。

7 参考となる文献

1995年に英語で発表されたKnowledge-Creating Company(邦題『知識創造企業』)は、経営学の分野に知識というコンセプトを持ち込み、日本企業のイノベーションのメカニズムを解明した一冊である。同書は世界10カ国語以上で翻訳され、ナレッジマネジメントブームを巻き起こすなど、世界のビジネスの現場にも多大な影響を及ぼした。個々人の暗黙知から組織の形式知へと変換し、イノベーションに高めていくプロセスは、「知識創造理論」「SECIモデル」として、世界の経営学でもよく知られている。四半世紀を経て、このたび読みやすくなって再登場。

学問を超えた理論と数多くの企業事例から、デジタル時代の人間の生き方と経営を考える。知識から知恵へ、イノベーションから持続的イノベーションへ。経営学の世界的名著『知識創造企業』著者両氏による四半世紀ぶりの続編。

ありがとうございます。心より感謝を申し上げます。