見出し画像

自分を生きるということ【気づき】無限な至高のよろこび体験

音声と動画でも詳しく解説

☆自分を生きるということを
別の言い方であらわすならば



「何かがあるから、喜んでいる」
ということではなく
「その瞬間にただいるだけで
喜びを感じている」ような感覚。

それはつまり
思考や感情というのが
とまっている状態なので
「無条件なよろこび」になる。

その意識状態のとき、自分の波動は
それに従うので

観るもの全てというか
空間ごとがキラキラと
軽い粒子で光って見える。
そんな体験もあります。

無条件なよろこびを感じる
本来の自分が掴めたとき

その延長上に、
自分がこの世界で何をしているときが
より充実した日々になるのか、見いだせてくる。

ということで
「本当の自分を生きる」ということや
「無条件な喜び」について
記事にします。

この※印は、さらっと読み流してもらってもいい

※波動というのは、エネルギーのあらわれで


意識のレベルによって波動も変わる。
それは物質化する。

素粒子は意識した瞬間にエネルギーとして物質化する。
じゃ、物や植物や虫に意識があるのか?
という話になるが、

人間のいう思考と意識とは別物で

存在は全て宇宙意識からの純粋な産物なので
その全体の調和の中において
「存在の意識」のような働きはある。
それをサット・チットともいいます。

それを、なんとか言葉で説明しようとすれば
人間でいう無意識状態に近いようなもので
「思考で存在しているのではなく
全体の調和のバランスの中で
無為自然に全ては存在している」
それは人も同じ。

☆「無条件なよころびの状態」と
「何かがあるから喜んでいる時」との
違いは、そこにあります。



もちろん何かがあるから喜べることも
この地上で生きる醍醐味。

しかし、それにまた執着してしまうと
それがなくなった時に
自分の歓びを見失ってしまうようなことにもなる。

「何か」というのが、
この世界の有限なものである以上

いつか終わることも、なくなることも
変化することもある。

だから、「無条件なよろこび」を
見出せていることは
どんな時であっても、喜びでいれるという
自分であれる。

無条件な喜びとは
「無限なもの」に一致している自分だ。

では、無限なるものとは?

☆私個人の経験でいえば
そのキラキラな体験をしはじめた頃は
何事か?わからなかった。


ヨガや精神世界を知っていく中で
その体験は

サーマディな体験であるということを知った。

「あぁ、これが至高とか、
至福とか、神秘体験というやつか」

とは、わかったものの
どういう仕組みでそうなるのかは
まだわからなかった。

今の理解でいうとそれは
いわゆる「空」に近い状態。
または「ゼロポイント」に近い状態。

ただし、意識的にそれには気づいている状態なので
意識と無意識の狭間の状態といえる。

直感的に何かを感じるときや
目に見えないレベルのことを
キャッチするときも、それに近く
頭は静寂であるゼロだ。

簡単にいうと「空っぽ」
思考や感情は無なんだけど、
意識的にはその自分に気づいている。

いわゆる「気づき」の状態。

☆先日、島の自然農園をされている方のお話で
とても共感したことがあった。



曰く「よく若い人が、自分の好きなことで生きていきたいが
それは何だろう?という探し方や求め方をされるが
自然界をみていると、全てが過不足なくピースにはまっている。
それを見ていると、まずは自分を知ることが大事じゃないか?」

「それを知った上で自分のピースは、全体のどこに
あてはまるのだろう?ということがわかってくる。
すると自然に勝手にそこに導かれていく」

と、お話されていた。

まさにそれが、先ほど書いた
「自分の思考で存在しているのではなく
全体の調和のバランスの中で
無為自然に存在している」という

「無条件な喜び」の状態のことを
言われているのだろうと共感したのだ。

そして、
「それを、今までの経験や自分のキャラクターで探すと
物事が見えにくくなる。
なので、ニュートラルな空間や静寂のゼロの状態で自分を見る」
ともお話されていた。

これも、ヨガやマインドフルネスや瞑想などで没入する
心をとめた状態。
つまり、思考や感情という自我が働いていない時の
空に近い状態のことをおっしゃられている。

☆ヴェーダやヨガの教えでは
サーマディという至福状態を段階わけしている。



何かがあってサーマディな三昧な至福を、
自我が働いた種のあるサーマディという。

例えば、好きなことに没頭して夢中に至福な状態。
釣り三昧とか、読書三昧とかも、そこからの語源。

そして、まずはそれを沢山経験したのちに
有限なものなのなどはなくても、
無限な世界に一致することで感じる
無種子なサーマディが訪れる。

☆おっしゃられていた
「今までの経験や自分のキャラクターで見る」というのが
くせ者で



それが、自分の歓びで生きることへの
アンカーになってしまう。
アンカーは、本当の自分が進みたい船を
重しでそこに留めてしまう。

それがいわゆる、
固定観念であったり、思い込みという執着。
それは幼少期から潜在意識にへばりついていたりする。
培った経験や、親や周囲や社会から与えられた観念。

その自分が当たり前になって
それが自分自身だと思い込んでいる。

例えば、アダルトチルドレンやインナーチャイルドが
意識を支配していれば、その子たちが物事を発想してしまう。

そして、本当の自分を見えにくくする。

恐れからの発想であったり
自己承認欲求からの発想だったり。

その自我が暴走した状態では
本当の自分が見えなくくなる。

なのでそれをポイッと
手放すことも必要。

本来、進みたい流れを
邪魔してしまうからだ。

そして同時に
本当の自分に気づきやすい、「空」の状態を
日常から取り入れていくことと

両方から自分と向き合うことで
これまで暗闇だった目の前に
本来の自分らしさを見出せる道として
光が見えてくる。

☆後者の「空」を日常に取り入れることだけで
今回はお話すると
ともかく「空っぽ」になること。



思考や感情のおしゃべり、
固定観念が強い場合は

頭が常に働いているので、
瞑想も苦手な場合が多い。
雑念が浮かんで、「空」になれない。

そういう場合は、身体を動かすヨガや、
茶道、登山などで無心状態を知ることで
その瞬間にゾーンをやがて、知ることが出来る。

やがては、目に見えないエネルギー状態を
感じはじめ、
肉体運動をしているにもかかわらず
肉体・思考・感情という
制限から解放される。
すると、空のゾーンにはいる。

もっと日常的に出来ることでいえば
呼吸の、吸って吐いてに集中することや、

歩くときに、右足、左足と
足が踏みだす感覚に集中時間を
取り入れることなども
思考や感情から解き放たれる
マインドフルネス法。

または、好きなことに没頭するのも
「サーマディ」からもはじめる。

料理でも、園芸でも、歌うでも、踊るでも、
無心に夢中になれること。
ただし、そこに、上手く出来る出来ないという
二極の概念や、結果を求めると
自我の観念が働いてしまうので

ただ、楽しめるのがいい。

思考や感情や概念から
解き放たれたならば
ゼロという
意識と無意識の狭間のゾーンにはいる。

自分がゼロに解き放たれてくると
純粋に喜びでいれる日々に
自ずと導かれるというような流れが
起こり

「自分を生きる」という感覚が
活き活きとしてくる。

それは、先日お話した
「龍の流れ」のお話にもリンクしている。

☆まずは
「自分さがし」を
する必要もない。


それよりも、空っぽになることだ。

執着をもつ自我を手放し
空っぽの領域に、それはある。
既にある。

自分の存在について
肯定も否定もする必要はなく

今ココに存在しているということは
この全体の調和の中で
必要だから存在している。

それについての疑いは
ただの自我の「妄想」であり

宇宙は
ひとかけらでも欠ければ
この宇宙自体が存在できない。

つまりは、全ての存在が
宇宙のピースであり
それが宇宙そのものという
ワンネス。

それは、たった一本のボールペンであっても
石ころひとつであっても、雑草であっても
絶妙なバランスで存在している。

どんなに、自分を否定しようとも、肯定しようとも
存在している以上は、全体の中のひとつのピースで
ただ、全てが尊く大事な存在であることには違いない。

生きとし生きるものが
無条件に存在として喜びであるというのが

サットチットアーナンダという

サット(存在)
チット(崇高なエネルギー)
アーナンダ(至福や喜びや愛)
という宇宙の本質。

それを自他に気づき続けることは
本当の自分を思い出していくことでもある。

☆ということで
引き続き目覚めようスピリット
TTTでどうぞよろしくお願いいたします(*‘∀‘)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?