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わたしが心理士になった過程

 現在は臨床心理士指定大学院のM2であり,4月から私は心理職として現場に出ることになる。M2になると実習で実際に心理療法をする。心理療法をするとき,クライアントの傷つきに向き合わなければならない。その傷を見ていくとき,同時に自分の古傷が痛むことがある。
 私の古傷とは,父親との関係である。私の両親は,私が6歳の頃に離婚した。私は母親に引き取られ,父親とは月一回だけ会う関係になった。父親とは仲が良く,母親や母方祖母から父親が旧帝大の理系であり賢いということを聞いていた。そのため,私は父に対して憧れを持っていたように思う。小学校に入学し,自分に数学的なセンスがないことにがっかりしたが,なんとか父のように理系が得意になりたいと思い,人一倍努力した。その甲斐もあり,私立薬学部から給付型奨学金をもらえることになり,その時はこれまでになく嬉しかったことを覚えている。
 ここまでの話は光の部分であるが,影の部分が私の古傷である。小学校高学年になり,体が女性らしくなっていく時期に,車の助手席に乗っている私の太ももを触ったり,おしりをなでるようになった。私は不快に感じ,「いやだ」というが,父は行動を辞めることはなかった。中学生になると,胸を触られ,性器をいじられるようになった。それだけでなく,フェラチオをするようにお願いされるようになった(小6の時に家庭教師からセックスを教えられ,こうすれば男性が悦ぶということを知っていて,自分からしたのかもしない)。性的に興奮した父親からセックスを要求されたこともあったが,私が流石にそれは嫌だと抵抗して挿入には至らなかった。父親はそのような性的なことを行った後,私に「ありがとう」,といい頭を撫でる。父親と同居しておらず,愛情が足りなかった私にとって満たされる瞬間であったため,父の行動を許してしまい受け入れていた。一方で,親子なのだから親子らしい関係でいたいという思いも強くあった。また,性欲のコントロールができてない父親に恐怖心を感じていた。中学二年生の頃,父親が再婚し,私は大変ショックを受けた。このような性的関係を私以外にも持っていたのかというショックが大きかったし,父親からの愛情が再婚相手に奪われてしまう嫉妬心も大きかった。
 このような関係は高校生まで続き,高校二年生の頃にはおかしいと感じて父親との性的関係を切ろうと試みた。しかし,父はそのような私の態度に対し「つまらない」と言った。それに対し私は父親からつまらないと思われることで私への愛情が減る心配を強く感じた。一方で,いくらつまらないと思われようが,父親とこのような関係になるのはおかしいと思った。高校3年生になって,受験を理由に父親に会うことはなくなった。父親と面会することで養育費を貰っていた母親から,「会わないとお金振り込んでくれないから会いに行ってくれない?JKお散歩だと思って」と要求されることもあり,負担に思っていたが,受験を理由にして会わなかった。
 先述したように薬学部に合格し,大学に通い始めたころ,いままでにない長距離通学や苦手な理系の勉強,慣れないアルバイトで疲弊していた。結局長距離通学は体力が持たないから一人暮らしをすることになったが,家事が上手くできず,さらに疲弊した。18歳の春休みに高校の友人である男子と会い,「高校にいた女の子と比較すると平均より下の可愛さ」だと言われ,「化粧をしたら?」と言われ,自尊心が傷つきで必死にダイエットをした。それに追い打ちをかけるかのように母親から養育費が欲しいから会いに行ってほしい,とお願いされた。18歳までは養育費を貰うように調停で決まっており,大学一年生の18歳のうちに会ってほしいとのことだった。私は父親に大学に受かったことを報告したかったし,人のたくさんいる駅で会えば父親から性的なことをされる心配もないだろうと思い面会した。父と食事だけして帰った。アルバイトが大変だ,という話をすると,父から「そんなこと別にしなくていいだろ」と一言が返ってきた。母からは「社会に出るためにアルバイトをしないと社会で困る」と言われており,アルバイトをしなければならないと思っていた私は混乱し,身動きが取れない状態となった。そのようなことがあった後,薬学部の成績がでて,単位は全て取れていたものの,下から数えた方が早い成績であることが判明し,給付奨学金を維持することが難しいことに気が付いた。私はこのことが大変ショックで,勉強が手につかなくなってしまった。そのころから自分の感じていることなのか,他者が感じていることなのか自他の区別があいまいになり始め,注力散漫になり,会話がかみ合わない状態になった。アルバイト先の店長が私の様子がおかしいと私の母親に電話をかけ,私は精神科閉鎖病棟に入院することとなった。精神科では薬の副作用で足の動きが止まらなくなったり(アカシジア),よだれが垂れ流しになったり,すごく辛かった記憶がある。閉鎖病棟ではスマホも持ち込めず暇であったため,個室で側転をしたり逆立ちをしたりして体操をしていたところ,看護師に見つかり,身体拘束をされることとなった。身体拘束は2回ほどなり,合計で一か月程は縛られ,食事以外は拘束されている状態であった。おむつを付けられ,排せつもその中でするしかなかった。アトピーがあり,痒いのに掻けないことがとてもつらかったように思う。私の精神状態はなかなか改善しなかったため,修正型電気けいれん療法を行うようになった。その治療のおかげで会話がかみ合うようになり,意思疎通ができるようになったと母から聞いている。(会話がかみ合うようになった自覚はないが客観的には精神状態が改善したということ)。入院中に,母親に父親との関係のことを吐露し,驚かれたがその後は父と面会するように言われなくなり,精神的に楽になった。
 退院から半年後,薬学部に戻ることとなったが,一年の勉強のブランクがあり,なかなか講義に追いつけなかった。そのころから精神科医になって人の治療がしたいという思いに駆られるようになった。そのような思いから医師になる方法を調べることに熱中するようになり,勉強が手につかず,有機化学と分析化学の単位を落とした。精神科医になりたいと思い,薬学部を休学した。母親からは受かる学力がないのに目指すのはおかしいから,再発したのだと思われていた。精神科医になりたくて半年間勉強をしたものの,苦手な理系科目の得点はやはり思うように伸びず,理系は無理だと強く思った。大学に戻ろうとしたが,給付型奨学金を貰う権利は入院による留年で消失していたので,一人暮らしのお金を援助しながら薬学部の学費を払うのは無理と母から言われた。大卒資格は取ろうと思って文系学部に転部するために3年次編入に向けて頑張ることとなった。
 待遇に雲泥の差があるものの,精神科医と近い領域と言われている臨床心理士/公認心理師を目指すことにした。処方や診断はできないが,精神の治療に関わることができる分野であるため魅力的に感じた。転部試験は無事に合格し,臨床心理士/公認心理師を目指すことになった。転部生であるため,卒業までの2年間,とにかく講義がみっちりと詰まっており,レポートに追われていた。講義の量が多かったものの,もともと文系科目が得意であったため,単位を着実に取得し,精神状態も悪化することなく卒業した。その後,臨床心理士指定大学院にも無事に入学し,もうすぐ修了ということになる。
 私は10代の頃,親への信頼がなく,辛かったことを口に出せなかったことが精神疾患になった理由だと思っている。6歳の頃,父と母が不仲になったころから母親は,彼氏を作り,家に上げて私と一緒に住んだ。その彼氏はとにかく人の悪いところを話題にすること好きな人であり,私の不器用なところを揶揄い,自尊心を傷つけてくる人であったため,家にいることもストレスに感じていた。私は大人への不信感が強く,自分の中にため込み,精神的な病を発症してしまった。しかし発症することによって,精神の治療への興味関心が強くなり,その後の人生の指針が定まったことや,母親に今まで感じていたことを打ち明けるためのいいタイミングになった。安定した仕事である薬剤師にはなれなかったが,人の心を支える心理士という仕事は,自分にとって,自分の人生と有機的に繋がっている意味のある仕事であると思っている。


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