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観光とは、子どもでなくなった人物が行うものだ、って。


モールで本を読んでいる側で、耳はクリスマスの到来を告げる音を拾い続ける。「We wish a ...」なんて歌詞が聞こえてくるが、その音がどうにも空疎なものにしか聞こえなくなっている。

wishって確か、実現可能性が低いものに関して願うって意味だったような気がして、予定調和的に訪れるクリスマスには、あまり似つかわしいとは思えないと感じている。明日地球が滅びるのならば、「We wish 」と言うかもしれないが。

同じことを何度も繰り返していると、新鮮味というものが無くなっている。生まれてから、既に存在しているクリスマスに対して、今よりも小さな時ほど、ワクワクを抱いていた時はない。あの時は、サンタだって実在していたのだ。

観光とは、ある意味では悲しいもの、或いは哀しいものかもしれない。観光の主体(?)、観光客として自分が、子どもではないと否が応でも知らされるようで。

子どもの頃というのは、全てが新鮮であった。存在していないという状態から、存在している状態に切り替わり、目に映るもの全てが、ある意味では非日常だった。「非存在」がデフォルト、日常だから、生れさせられてからのすべての日常が、非日常のようだった。

夜の11時まで起きていた経験がある。今となれば、驚きもしないけれど、起きていたことの無い時間を認識するだけで、心の底から嬉しさが湧いて出てくる。不思議だ。時計の短針の角度が違う。これだけで、「非日常」だった。

しかし今となれば、どうだろう。ワタシは、時時、観光というものをしなければ、非日常という経験を味わえなくなっている。何度も強い薬を打って、より強い薬が無いとだめみたいな人間のよう。観光という「麻薬」が無ければ、この精神と身体には、「非日常」から由来するドキドキや解放感を与えることが出来ないのだ。

子どもの頃には、多分そんなものは必要ないのだと思う。全てが非日常なのだから。それ以上の刺激は逆に悪影響とさえ思う。何事も、ほどほどでいい。日常が、「日常」と化してしまっている今、ワタシは「非日常」を、別の所へ、別の土地へ、地域へと求めなければならない。

時が速い。気づけば師走に入っていて、気づけば時間がただの数字になっている。11という非日常に感じたあの衝撃と、驚きはかすかに残っているようだけれど、消えかかっている残りかすであることには変わりない。さらにその感覚を、もう一度なんて我儘は容認されることはない。

だから、旅とか、旅行とか、観光という「麻薬」を求めるかもしれない。より強い刺激を。知らない風景を。ワクワクを。驚きを。衝撃を。慟哭を。国家公認、促進対象の、健全(に見える)な「麻薬」である。(案外、麻薬というものは、それが「麻薬」だと多くに認識されているものよりも、そうでないと信じられているもの、「砂糖」みたいなものを指しているのかもしれない。だとしたら観光も・・・まぁ、関係ないか。)

子どもの頃に戻りたいと。しかしそのことを口から零してしまうということは、君はすっかり子どもではなくなってしまったということだ。今出来るとすれば、その何もかもに疑いの目を向けるその感性だ。その感性が、麻薬への依存を辛うじて止めているのかもしれない。君の中の子どもの部分が、「哲学的思考」「哲学的営み」として、最後に現れているやもしれない。その最後の一滴を、大事にせねばならないのかもしれない。

観光が悪いとは、言わない。言えない。

ただ、日常を「日常」だと感じるようになってしまいつつあるその感性が、あの頃との乖離と猛独を身体に沿わせようとしてくる気がするだけだ。




今日も大学生は惟っている



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