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INFJの憂鬱:そして自分を殺していることに気づく

バイトをしていた時に、私はあることに気づく。私が、一瞬誰であるかが分からなくなっていること、そしてそこには、「私」がいないような気がしたということ。

バイトと言えども、それは一種の仕事だ。人を相手にしなければならない以上、それ相応の対応や態度を構築しなければならないのが、常であることは、火を見るよりも明らかであろう。

つまりそこでは、「私」とは、限りなく「能力」という基準で捉えられる存在であるということだ。ここでいう私とは、「誰」であるというよりも、むしろ「何」に近い存在か。

どのようなことが出来るのか。

これが、これだけが、重要なのである。そうして、仕事をしている最中に、不図こう気づく。「あ、今自分死んでたな」と。これは、集中力が良いと言えば、それまでかもしれないが、そこでは、完全に「誰」であること、停止している自分がいるばかりなのよ。

「誰」であるのではなく、「何」である。

役割を与えられ、時間にしたがい、適宜能力を発揮し、行使する。確かに、そこに「私」は存在してはいない。しかしはたから見れば、その「何」が、「私」を作り上げているのだ。他人から見れば、「何」が「私」なのである。

「私」は消えていて、そして「何」が「私」になっているという二重の意味で、私は多重に殺されている。そして時々哀しくなる。今、私自身が「何」と化していたことと、「私」がどこに行ってしまったかもう分からなくなるのではないかという不安から、泣きそうになる(多分ね)時もある。

この世界は、限りなく生産的で、有用性が有用であると思われる。

私の「能力」としての「何」が消えたとき、はっきり言ってそれは、私の価値が消えたときだ。といっても、私にはそのような価値など、これっぽっちもあるとは思えないけれど。

じゃぁ、子どもや老人や、障がい者の類はどうなるのかと言われれば、その範囲に「有用性」を適用してはいけないのが、今言える事だろう。なら、どうして私は、その有用性を適用してはいけないという考えを、適用してはいけないと考えてしまうのか。私が弱いからだろうか。

今日もnoteや、他のsnsを見れば、「学んでいる人」「企業社会の中で生きるスキルを獲得している人」「役に立つこと」「有用性のあること」ばかりが溢れている。そして、「金がなきゃダメだ」という人がいる。

意図して、そういう人を選んだわけではないのに、そういう人がいる。必ずいる。どうやら自分は、有用性からは程遠い、例外みたいだ。

そうしてまた、私は恐くなった。この文章を打っているのは、「私」なのかという不安。この文章を打つ時でさえ、私は「私」を作り上げているのではないかという、恐れや焦燥が、頭蓋の中を揺蕩う。

また、自分や自分らしさが解らなくなる...。



今日も大学生は惟っている。


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