ご飯を食べている。その間に、メッセージをも食べているのかもしれない。

久しぶりの社会学の記事!ということで、張り切ってまいりましょう。

夕飯を口にしている時、不図この思案が頭に浮かんできた。それはあまりにも突然で、そして私は、スプーンや、茶わんや、調味料や、テーブルを見つめた。それだ。まさに、これだった。

社会学のメディア論の講義を受け始めた影響も相当にあるのだろう。しかし、あまりにも大きすぎる気がしないでもない。

食事だ。この食事。

この食事が、なんと人間らしいことか! 

あまりにも当たり前であると思っていたこの食事に、この飯に、これほどの驚嘆の念を抱く事になるとは、数年前の私はきっと予想してすらいなかったはずだ。

当たり前だと、当然だと、特に違和感や不自然だと思っていない部分にこそ、興味深い点が隠れているではないか!と、思わざるを得なかったのだ!

食事。これは、単なる食べ物ではない。

食事は、単なる栄養摂取ではない。断じてない。食事で私が得るのは、栄養と、「メッセージ」なのだ。

ここで、『社会学』から、「メディア」についての文章を引用したい。

「メディア」はさらに広義に, 人間と, 物理的対象を含む対象一般の間に立ち、それらの対象について経験を媒介する「テクノロジー」をさして用いられる場合がある。(浜日出夫、2007、139)

メディアは、非常に広い意味を持つ。そのように講義でも教わった。言ってしまえば、人間が利用するような道具の、非常に多くが、「メディア」でさえある。

言葉

語調

イントネーション

訛り

表情

身振り手振り

地位

状況

心理状態の反映

声の高低

大きさ小ささ、などなど。

なら、これは食事においても例外ではないのではないか。つまり、食事においても、「メディア」と捉えることが出来るもの、そこから生じる数え切れないほどのメッセージが存在しているのではないか?

例えば、「夕ご飯」という状況にあるものをとことん挙げてみよう。

箸、茶わん、他人、コップ、テーブル、ティッシュ、スプーン、食べ物(主菜や副菜など)、醤油、酢、七味唐辛子、一味唐辛子、レモン。食事そのものの空間。小皿。取り皿。

そして、料理に必要な様々なもの。

ボウル。フライパン。調味料。包丁。他人。作ったという事実。ガスコンロ。冷蔵庫。材料。水。箸。菜箸。油。様々な肯定そのもの。

食事、料理と言っても、これほどのもの、或いはこれ以上のものがあるだろう。

これは、単に栄養摂取する時とは、圧倒的なにもかもが違う。例えば、ハンバーグを作って食べるとき。パン粉と、卵と、牛乳と、お肉と、玉ねぎと、ニンニクと、などなど。ハンバーグのタネを作るにも、数種類の材料が必要になってくる。

しかし、人間は、往々にして、これらを「そのまま」で食べるというわけではない。

パン粉と、卵と、牛乳と、お肉と、玉ねぎと、ニンニク(これらはより本来のものへと戻して考えることも出来るが)を、むしゃむしゃと、粗野且つ無防備に、口へと運び込むわけでは無い。

それらを刻み、混ぜ合わせ、捏ねて火を通し、焼き加減を確認し、味をつけ、おそらく最終的には、「食器」を使って食べるだろう。

繰り返して言うが、食事は、ただの栄養摂取ではない。むしろそれは、食事という行為を通して、或いは食事自体というメディアを通して、ある種の「メッセージ」を受け取ることではないだろうかと私は考える。

先ほどの、

箸、茶わん、他人、コップ、テーブル、ティッシュ、スプーン、食べ物(主菜や副菜など)、醤油、酢、七味唐辛子、一味唐辛子、レモン。食事そのものの空間。小皿。取り皿。

箸を使い、茶わんにご飯を盛りつけ、コップには飲み物を注ぎ、スプーンも使用し、醤油や酢、七味や一味などの調味料をさらに加え、小皿や取り皿に食事をとり分けて・・・食事そのものの空間を感じる。そしてそれは、誰かと共に成されることもある。

灰色で示したのは、おそらく「メディア」だ。マクルーハンの指摘するような、「人間と, 物理的対象を含む対象一般の間に立ち、それらの対象について経験を媒介する」(浜日出夫、2007、139)もの。

「食事」の場合で言えば、人間と、物理的対象つまり「材料」「食べ物」の間隙に存在し、材料・食べ物についての経験を媒介する、ということになると思われる。

また繰り返す。

食事は、単なる栄養摂取ではない。

パン粉と、卵と、牛乳と、お肉と、玉ねぎと、ニンニクたちが、乱雑に散らかっているのを見て、「食事」だと人間は言わないだろう。

チョコレートプラネットが、(コント内ではあるけれど)、ブルーシートの上に直接野菜を置き、そこにドレッシングをかけて食べていることに違和感を覚えるのは、

それが、あまりにも「直接的」であるからではないかとさえ惟う。

そしておそらくそのことが、「食事」は、それらの材料というコアとなるもの・ある種のメッセージ「a」と、それら以外の大量のメディアから発せられ、人間が受け取るような大量のメッセージ「b・c・d・e・f・g・h・i...」などが組み合わさって生まれる、「メッセージの複合体」なのではないか?と不図、食事をしている時に考えた。

誰かと食べている。一人で食べている。美味しい。酸っぱい。箸で取りづらい。スプーンが使いやすい。雰囲気が良い。会話がタノシイ。他にも・・・色々ね。

そういった「メッセージ」を受け取っている行動が、どうして単なる栄養摂取の行為だと言えるのか。それが、本当に、点滴からポカリスエットみたいなやつを吸収している状態と一緒だと思うのかだろうか。無論私は・・・である。

「食事」と「メディア論(?)」。意外なつながりかもしれないけど、書いていて、考えていて面白かった。

今日も、おそらく明日も、「美味い」って口にしながら、「メッセージ」もおいしくいただきたいものだ。


後なんだか久しぶりに、タノシイ文章を書けた気がする。




今日も大学生は惟っている。


引用文献

長谷川公一.2007.社会学.有斐閣アルマ


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