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レンブラントの「夜警」が、夜警では無いことから見えること

一般的に信じられていること、知られていること。こういったものが、本来(?)の事実と異なることがある。テレビではその「差」みたいなものを利用して番組をつくることもあるのだろう。

その情報を垂れ流しているのは、マスメディアかどうかは分からないけれど、しかしいつの間にか人々の認識が歪んでいることがある。当たり前だと思っていたことが、実は誰かがそうだと思わせるように操作したものでしかないとか、或いはある事実があったけれども、大衆には認知されずに終わってしまった、ということもある。

色々逡巡していると、ある本を大学一年生の時によんだことを思い出す。

『名画は嘘をつく』という木村秦司さんが著した本には、興味深いものがある。そこには、ワタシの思いこみを、ある意味では、教科書に載ってあることの正しさを揺らがせるものを見た。

それは、レンブラントの「夜警」という絵画についてだった。

彼の代表作となった作品ですが、この《夜警》というタイトルは通称でしかありません。本来は《隊長フランス・バニング・コックと副官ウィレム・ファン・ラウテンブルフの市警団》が正しいのです。〔中略〕コントラストの激しい明暗法で知られるレンブラントの作品は、表面の掃除をしないでいると、真っ黒で何が書かれているかわからなくなるほどです。タイトルでごまかされてはいけませんね。(木村泰司、2014、20)

”いわゆる”、「夜警」と称されている絵画は、夜警ではないということだろうか。本来の名前である「隊長フランス・バニング・コックと副官ウィレム・ファン・ラウテンブルフの市警団」とは、遠くかけ離れた名前とさえ感じられる。

高校生の時、世界史の教科書に載っていたその絵画の名は、紛れもなく「夜警」だった。それ以外には書いていなかった。ある意味で教科書というのは、事実そのものを記述しているのではなく、「通称」とか「一般にそうであるとされているもの」という、割と曖昧な記述の集合体なのではなかろうか。

もちろんこれ以外にも、世界史の教科書の中で、いわゆる「事実(とされていること)」と違いがある記述を他にも上げることが出来る。(だがとりあえず、ここでは書かない。)

教科書は事実でもない。以前、歴史って、共同体生成史なんだね。後、想像の共同体。という記事を書いたが、結局教科書に、”わざわざ”のせられているということは、載せられる必要があるということであり、またそうであると信じられる必要があるということだろうか。そこから先、その教科書の内容そのものを批判的に見ようとする人物は少ない気がする。

隊長フランス・バニング・コックと副官ウィレム・ファン・ラウテンブルフの市警団」という絵画が、「夜警」という絵画として知られるように、物事とというのは、そうであるということよりも、「そのように知られている」ことの方が案外多いのかもしれない。というかそもそも、疑うことそれ自体が少ない様にも思われるけど。

事実と異なる。通称、一般的な事実、固定観念。見なければいけないのは、事実を「事実」だとみなすことではないと勝手に思う。それが事実だから良いとか悪いとか、或いは事実では無いから良いだの悪いだのと決めつけるのではなく、いわゆる事実(とされていること)と、一般的に信じられていることの「間」、「差異」がどうして生まれてしまうのかを問う方が、時間を潰せそうだろうね。

その「差異」、或いは「視差」。その間隙が何を意味するのか。その間隙を生む者はなにか。どうしてそれが生まれてしまったのか。「夜警」を描いたのではない絵画が、「夜警」になってしまったことにも理由がきっとあるように、そこには、明確に一つと断定することは出来ないかもしれないけれど、もしかすれば、知らないことがわんさか隠れているかもしれない。

「夜警」について書いてあったのは、「名画は嘘をつく」という本だ。しかし、それは「嘘」なのだろうか。「嘘」ではないものは、必然的に「事実」になりうるのか。きっと信じている人がいる。それは、「嘘」なのだろうか。きっと「嘘」にもいろいろある。どんな嘘が生まれるかは、状況次第。しかし存在しないというわけではない。


名画さえも嘘をつく。人間も嘘をつく。そこに現れる「差異」は、何を意味しているのだろう?




今日も大学生は惟っている


引用文献

木村泰司.2014.名画は嘘をつく.ビジュアルたいわ文庫



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