歴史って、共同体生成史なんだね。後、想像の共同体。
「歴史」について、今年(2020年)の二月くらいに、「世界史はホントに世界史なのか?」という記事を書いたことがある。哲学の講義を受けて、なんとなく興味を持って、構造主義についてちょ~っと勉強して、それを基に書いたものだ。
こんなことを書くくらいなので、今回も、「歴史」について、興味深い文章をみつけたので、ワタシの意見も述べつつ、引用したいと惟う。
「レヴィナス 壊れものとしての人間」から
歴史的出来事とは、歴史的共同体という制度の誕生を指し示すシンボルである。〔中略〕歴史意識とは、起源のシンボルの再活性化なのである。つまり、歴史意識とは、共同体を維持するために必要な、創設の反復(想起)なのである。〔中略〕歴史的出来事は、共同体の存続する限り常に歴史意識として機能し続ける。(村上靖彦、2020、202-203)
この「歴史意識」や「歴史的出来事」という概念を見ると、想像の共同体という言葉を思いだす。ベネディクト・アンダーソンという方が提唱した概念で、「(マス)メディアを媒介によって共有される、物理的にはあり得ない・到達し得ない領域・地域にいる人々との、一つの共同体に属しているという帰属意識」という理解で一応ワタシは覚えているのだけれど、ちゃんと本からも、「想像の共同体」についての説明を記しておこう。
「同質的な時間と同一の空間を共有しながらともに進み共同体」として「想像すること」が可能でなければならなかった。そしてそのことを可能にしたのは, 新聞や小説といった印刷された言葉への大衆への普及であった。(町村敬志、2007、316)
歴史を思い出す。或いは歴史を知ることで、自分が経験したことのない、或いは自分が属している国の一員であることを自覚する。いや、「歴史を知ることで」という、歴史を「知る側」に注目した表現は少し違うかもしれない。最初に引用した文には、その歴史の役割というか、機能こそが、「想像の共同体」というものにつながっていると考えたほうが、ワタシには自然に見える。(まぁどっちもどっちかな)
この考えにしたがえば、ほぼあらゆる歴史、特に教育の場で教えられることの多い「歴史」というのは、「(全)歴史」では当然なく、「共同体生成史」と表現した方が、適切かもしれない。というか、「歴史」自体が、誰かの都合の良い様に作られているものかもしれない物語(l'histoire=the story)みたいなものだろうか。
逆にいえば、「想像の共同体」の形成につながらないような、或いは歴史を作り出すことに寄与したり、国や共同体を維持することに寄与することが無いような出来事(事実?)というのは、歴史として認められることは無く、打ち捨てられ、消えてしまうということなのだろう。
そういえば、というか、学校で「歴史」を習うことは、この「想像の共同体」の生成に貢献しているのように思える。
塾でバイトをしているから、子どもの勉強をサポートしている(かもしれない)けど、それはある意味、洗脳を強化しているようなものかな。というのも、歴史というのは、先ほどからも書いているように、レヴィナスの指摘する、「歴史的共同体という制度の誕生を指し示すシンボル」(村上靖彦、2020、202)であり、学生はその共同体生成につながっているシンボルを学んでいると、ワタシには感じられる。学校や塾では、「グライダー」のような、つまりは、滑空することしか出来ない人間を依然再生産し続けるのだろう。(外山滋比古、1986)
答えを見る度。
歴史の流れを確認する度。
出来事や人物や、法律や「歴史的」建造物や、名勝や文化について、生徒に質問する度に、
生徒は、「日本」という国、その場所で起きた「(出来事)歴史」を、再確認する。経験したことのないものを、「在った」ものとして錯覚し、想像する。そして私も、その洗脳にかかっているのだろうね。現在につながるような、現在完了的な歴史や出来事しか残らない。
(英語、数学、国語、理科などその他についての理解も深めるのも、一種の洗脳なのだろう。生徒の、それらに対する理解は深まっても、その知識そのもを疑う素地を育てることにはワタシは寄与していない。)
見たことが無いもの、出来事、人物についての記述を見て、それが「ある」かのように振る舞っている。もちろん私もそのように振る舞っている。ただそれは恣意的に再構築されたものなのであって、それは永遠不変の真理などではない。ただ答えとして設定されているだけ、共同体のシンボルとして選択されているだけなのだろう。
つまりは、歴史は操作されうる。
過去形的な出来事は姿を消し、現在完了形的な出来事だけが選択され、共同体のシンボルとして機能する。歴史は、やはり横暴だ。恣意的だ。その出来事が、わざわざ選ばれるのには、必ず理由があり、「歴史」が総ての出来事ではないのだ。
意味がないものは消去される。現在に役立たないものは棄てられる。それが歴史であり、共同体生成史なんだろうな~。(多分ね)
と
今日も大学生は惟っている。
参考・引用文献
外山滋比古.1986.思考の整理学.ちくま文庫
長谷川公一.2007.社会学.有斐閣アルマ
村上靖彦.2020.レヴィナス 壊れものとしての人間.青土社
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