シェア
shizu
2021年7月12日 14:34
紅茶の気分だ。と、とりたてて言うほどもなく、いつも紅茶の気分である昼下がりだ。喫茶店の店主に知り合いがいるというのは、なんだか少し特別な感じがするけど、ここは誰に自慢できるようなところでもないなと思う。 彼はいつものように、オレンジ色の癖っ毛に三角巾を巻き付けて、客側の椅子に座り、足を組んで、眠そうにカウンターに肘をついているだろう。そう思いながら、古ぼけたような、よく言えばアンティークな店の
2020年11月7日 21:03
いつの間にか家では全く口をきかなくなった。ぼくと彼女は結婚して、一緒に暮らし始めて半年ほどになる。共働きで家事を分担することにも慣れると、お互いに家では何をするべきか分かっていて、何も言わずとも滞ることなく生活ができた。先にキッチンに立った方が食事を作り、作らなかった方が片付けをする。風呂は彼女が先に入り、夜の十時に就寝する。ぼくが買い物に行き、彼女がごみを出す。洗濯は二日に一度で、週末にはぼく
2020年11月6日 21:40
後ろの車が物凄い勢いで車間を詰めてくる。反射的に男はアクセルを踏み込む。車通りの少ない夜中の幹線道路に、ヘッドライトの光が流れていく。どれだけ男がアクセルを踏み込んでも、後ろの車はぴったりと付いてくる。ルームミラーにチラチラと映るライトに目をしかめる。信号が赤に変わる。そのタイミングで交差点に入る。まだ後ろは付いてくる。手の汗でハンドルが滑る。 仕方なく脇道に入っても、まだ付いてくる。うるさ
2020年11月5日 22:04
事故物件と言っても実際にその物件で起こっているのは、自殺や殺人であって事故ではない。ただ物件はそれに巻き込まれただけの被害者ですよという面をして、不動産屋が事故物件と言っているのだ。しかし人がそこに住みたがらないのは、物件の側にも責任がある、完全にもらい事故物件だとは思っていないからではないか。つまり殺人物件だ。目に見えない殺人者を飼っているとでも思っているのだろう。 全く馬鹿らしいけれど、
2020年10月23日 23:46
私はテストではいつも素晴らしい点数を取ることが出来ましたが、いつもカンニングという行為をしていました。ただ、私がカンニングをするのは、解答用紙を全部埋めたあとです。その行為をしたあとに答えを書き直すことはありません。まず右の人の机を見ます。考えているふりをしてシャーペンを顎に当てながら。次に左の人を見ます。消しゴムで何もないところを消しながら。だいたい私より点数が悪いことは見れば分かります。それ
2020年10月20日 22:59
たまには何も考えずに、ただ時を過ごすことに集中する時間があったっていい。休日の朝にアートブレイキーを流しながら、コーヒーがフィルターを通り抜け、一滴ずつ作られていく様子を眺めているような時間だ。不安や心配事はいくら眺めていても飽きさせないものだから、さらさらとメモに書いて頭の中から出て行ってもらう。そしてただ時間を過ごしていると、体の中から余計な力が抜けていき、歪がなくなると自ずと自分のすべきこ
2020年10月19日 23:08
大学生の夏、同級生だった友人が亡くなった。急性心不全らしい。自殺という噂もあった。中学まで同じで、私は進学校に進み大学へ行ったが、彼は高校を卒業したらバンドマンになって、レンタルショップに並ぶCDを見ることもあったし、音楽で食べていけるくらい順調だと聞いていた。午前の授業をサボって惰眠を貪る私よりは、ずっと彩りのある人生を送っていたはずだった。 ショックだった。悲しい悲しい悲しいと言う文字が
2020年10月17日 23:09
買い物帰りに川の上の橋を歩いていると、河原でランニングをしている男がいた。湿気を含みつつも、ひやりとしてきた秋の風が、外を走るには気持ちのいいシーズンだと思った。ランニングの男は最初、橋の下から現れて、白いシャツを着た上半身だけが見えていたが、下に履いているものはジャージではなくジーパンだった。白シャツにジーパンで河原沿いを走る男、まるで何かに追われているみたいだなと思った。 しかし何に追わ
2020年10月15日 22:56
おばさんの声はこの家の中でよく響いた。この家の構造上、一番よく通る声の出し方を知っているみたいで、柱や天井が共鳴してどこに居てもおばさんの声が聞こえた。少し鼻にかけたような低く張りのある声で、それは動物たちが遠くの仲間に危険を知らせる呼び声を習得するかのごとく、長年この家で暮らしてきたおばさんが習得したものだった。 おばさんの家には、お盆とお正月に親戚が集まってくる。同じ年くらいの従兄弟たち
2020年10月14日 22:10
体が滑らかに動くと、延長線上の自転車は油を差したようにペダルがよく回る気がするし、筆も絵の具の伸びがいいのではないかと思えた。彼はそんなことを考えながら自転車を漕いで登校した。 高校の校門を通り抜ける。駐輪場に自転車を停める。昇降口から階段を上がり教室に入る。自分の席に座る。多くの生徒とすれ違ったが、彼は誰にも挨拶しなかったし、また誰も彼に挨拶をしなかった。彼は教室で孤立していた。会話の能力
2020年10月10日 23:19
彼は人見知りで、友人は少なく、大勢の中で発言するときは、緊張で心臓が喉元まで上がってくるような感覚になるほどシャイだった。口を開ければその鼓動の音が他人に聞こえるのではないかと疑っていた。自分の本音などというものはいつの間にか、多分、十歳かそこらくらいの頃に忘れてきて、話す言葉は相手が求めるものを必死にくみ取ったおべんちゃらであり、誰にも印象というものを与えないように努力していた。何がそうさせる
2020年10月7日 22:26
大学は夏休みであり、今日は誕生日だが、ワンルームに一人で時が過ぎるのを待つしか予定はない。だらりと寝転がっていると、この四角い部屋が棺のようで、生きたまま土に埋められ、ゆっくりと死んでいく、それも悪くないと思えてしまう。そんな棺の中で今日まで何とか生き延びてまた年を重ねたのだ。朝から憂鬱になっていると電話が掛かってきた。シンからだ。「ハッピーバースデー、今日の予定は?」「特にないけど」「じ
2020年10月1日 23:46
すっかり遅くなってしまった。家に帰って晩ご飯の支度をするには、少し気力を減らしすぎた。空腹も極まった帰り道の途中、のれんを潜り、がらりと引き戸を開ける。 威勢のいい挨拶を受け、狭い店内、滑りやすい床に気をつけながら食券を購入する。からりと落ちてるくのは札である。カウンター席に座って待っている間には独特の緊張感がある。丼が運ばれる。 沸き立つ湯気は勝ち鬨の狼煙のごとく、山のようにうずたかく
2020年9月26日 23:58
家に帰ると妹はテレビ画面に向かって、ぎゃあぎゃあと一人騒いでいた。いつもの光景だ。独り言というわけではない。聖徳太子もびっくりな人数を相手に喚いているのだ。俺が帰ると、「城主様のお帰りだー、皆のものしばし待たれい」とあぐらをかきながら、座卓に設置されたマイクに話しかけている。妹はテレビゲームをやりながら配信をしている。マイクの脇に置かれたノートPCにはコメントが流れていく。俺は声が配信に