ぼくたちは話しをしない

 いつの間にか家では全く口をきかなくなった。ぼくと彼女は結婚して、一緒に暮らし始めて半年ほどになる。共働きで家事を分担することにも慣れると、お互いに家では何をするべきか分かっていて、何も言わずとも滞ることなく生活ができた。先にキッチンに立った方が食事を作り、作らなかった方が片付けをする。風呂は彼女が先に入り、夜の十時に就寝する。ぼくが買い物に行き、彼女がごみを出す。洗濯は二日に一度で、週末にはぼくが風呂掃除をする。スケジュールはスマートフォンのアプリで共有していて、お互いが何をしているのか大体は分かる。ぼくらはセックスもしなかったし、別に性欲も感じなかった。ただベットの上でキスだけをした。そのぴちゃぴちゃという音がぼくらにとって唯一会話らしきものだった。ドレッシングのお酢と油のように、お互いに調和をとりながらも、分子レベルで混じり合うことはない、ぼくらはそんな存在に思えた。
 それ以前のぼくらの関係は、彼女が船長ならぼくが舵取りのようなもので、彼女の号令にぼくがプロセスを考えることが多く、彼女の気分にぼくが合わせることが多かった。だから沈黙が始まった時も従った。
 そして今、船は方向性を見失っている。たまにはそんなこともあるだろうと思っていたが、これは彼女の何か腹に据えた意地があって、そのために静かなる抗議をしているのではないかという気もしてきた。そう思うと彼女が何も言わずに黙っていることが、だんだんと腹立たしく感じた。彼女が何を思っているのかぼくには知りようのないことだ。それならば、こっちだって静かに対抗しようと思った。つまり話しをしないということで。
 そう思ってからは、彼女のご飯の支度が出来たことを知らせる目線も、風呂の戸を閉める音も、キスの感覚さえすべてが刺々しく、そのささくれはぼくを苛立たせた。その苛立ちはぼくを孤独に閉じこめていき、二人はどんどん分離している気がした。とある連休前の金曜日に、彼女は『今日は帰りません』という書置きを残して帰ってこなかった。スケジュールアプリの予定は空白だった。その書置きを見たときに不穏さは感じたものの、ぼくはベットに敷かれてたヤスリが無くなったような気持ちになって、その夜はぐっすりと眠れた。しかし土曜日になっても彼女は帰らなかった。夜には平穏な気持ちも薄れて、不安を枕に眠った。翌日の日曜日は朝早く目が覚めた。隣のベッドに彼女がいないことを確認すると、昨夜の不安から一転して腹立たしくなってきた。あるべきものがないという欠乏感から、家という機関がうまく動かず、掃除も洗濯もする気にならなかった。このまま家にいるのも収まりが悪く、おとなしく食事を作って待っていられないと思ったので、出かけることにした。
 電車に乗って街に向かい、ホテルに併設された広い喫茶店でモーニングを注文した。ホットコーヒーに砂糖とミルクを混ぜながら、ぼくは平穏と寂寥と焦燥をぐるぐるしていた。帰りたくなかった。彼女より先に帰りたくなかった。ぼくはこのホテルに泊まりたくなって、空き室を聞いてみようと思い、ホテルのロビーまで行ったが、あまりに格式張った立派なホテルだったので気が引けた。仕方なく街をぶらぶらしていると、もっとリーズナブルなビジネスホテルや、ネットカフェもあったが、ぼくはどうにもあのホテルに惹かれていた。結局歩き疲れて、また同じホテルの喫茶店でランチを食べた。オムライスをスプーンで切り開いて中身をほじくり出していると、ウエイトレスが声をかけてきた。
「彼女にでも逃げられた?」
ウエイトレスはギンガムチェックのシャツに、腰に巻くタイプの大きなポケットのついた白いエプロンをしている。ウェーブのかかったボリュームのある髪を肩口でバッサリと切り揃えており、とても小顔に見えた。少し嘲笑するような表情は、冷淡とも妖艶ともとれる。ぼくが朝から死んだ魚の目をして、このホテルを中心とした回遊魚になっていることに気付いているようだった。
「逃げられたとしたら何かあるんですか」
できるだけ不愛想に返答すると、ウエイトレスはこのホテルの客室がいかに素晴らしく調和のとれた洋室であるかを説明した。
「きっとまだ空き室があるわよ。ちなみに私はもう仕事あがりなんだけど」
と言って今にもウインクしそうな視線を送ってきた。
「このホテルにはそんなサービスがあるんですか」
「たぶんそうね」
ぼくは瀟洒にしつらえられた部屋のベットで、ウエイトレスと寝るところを想像した。それは甘美に満ちた空間だったが、僕の体はネバネバしたシーツに絡めとられて身動きが出来なくなり、やがて干からびていくようなイメージが浮かんできた。ぼくは水を飲んだ。グラス一杯を飲みほして、ピッチャーからもう一杯注いだ。ウエイトレスはまだ嘲笑を貼り付けていた。いくら飲んでも喉の渇きが癒えることはなかった。ここにぼくの求める潤いはないのだと直感した。ぼくは家に帰ることにした。
 自宅の前まで来ると彼女と鉢合わせた。「おかえり」とぼくが言うと「ただいま」と彼女は言った。ぼくらは『二人』という時間の過ごし方とか、その距離感とかをまだ知らないんだと思った。

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