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断片集

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日々浮かんでは消えていく、小説の断片を書き留めています。
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記事一覧

紅茶の気分

 紅茶の気分だ。と、とりたてて言うほどもなく、いつも紅茶の気分である昼下がりだ。喫茶店の店主に知り合いがいるというのは、なんだか少し特別な感じがするけど、ここは誰に自慢できるようなところでもないなと思う。
 彼はいつものように、オレンジ色の癖っ毛に三角巾を巻き付けて、客側の椅子に座り、足を組んで、眠そうにカウンターに肘をついているだろう。そう思いながら、古ぼけたような、よく言えばアンティークな店の

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 ふるさと納税でカニが届くと、しばらく冷凍庫に眠らせておき、カニの入っている状態の冷凍庫を楽しむ。カニを食べることよりも、カニの入っている冷凍庫が好きなのである。

 戸棚にお菓子が入っていると、おなかがすいても我慢していられるけど、何もないときは我慢できずにイライラしてしまう。

 カレンダーには「掃除をする」レベルの書くまでもないことでも、とにかく埋まっていればそれだけで私の日々は間違っていな

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ぼくたちは話しをしない

 いつの間にか家では全く口をきかなくなった。ぼくと彼女は結婚して、一緒に暮らし始めて半年ほどになる。共働きで家事を分担することにも慣れると、お互いに家では何をするべきか分かっていて、何も言わずとも滞ることなく生活ができた。先にキッチンに立った方が食事を作り、作らなかった方が片付けをする。風呂は彼女が先に入り、夜の十時に就寝する。ぼくが買い物に行き、彼女がごみを出す。洗濯は二日に一度で、週末にはぼく

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逃避

 後ろの車が物凄い勢いで車間を詰めてくる。反射的に男はアクセルを踏み込む。車通りの少ない夜中の幹線道路に、ヘッドライトの光が流れていく。どれだけ男がアクセルを踏み込んでも、後ろの車はぴったりと付いてくる。ルームミラーにチラチラと映るライトに目をしかめる。信号が赤に変わる。そのタイミングで交差点に入る。まだ後ろは付いてくる。手の汗でハンドルが滑る。

 仕方なく脇道に入っても、まだ付いてくる。うるさ

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事故物件

 事故物件と言っても実際にその物件で起こっているのは、自殺や殺人であって事故ではない。ただ物件はそれに巻き込まれただけの被害者ですよという面をして、不動産屋が事故物件と言っているのだ。しかし人がそこに住みたがらないのは、物件の側にも責任がある、完全にもらい事故物件だとは思っていないからではないか。つまり殺人物件だ。目に見えない殺人者を飼っているとでも思っているのだろう。

 全く馬鹿らしいけれど、

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機械的なもの

 人の言う、あの世、なる別の世界というのは最近誕生した。人の魂はあの世から生まれてあの世に還る。人が子供を産むから魂が生まれるのか、魂が生まれるから子供を授かるのか、それは卵が先か鶏が先かと同じくらいの神秘である。

 だからもともとあの世、なる世界はあったのだが、人が死んだあと、魂が還る前にもう一仕事して貰うようになったのだ。それはあの世における最新のテクノロジーで、還る前の魂を補足してかりそめ

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手を叩いていない人

 私はテストではいつも素晴らしい点数を取ることが出来ましたが、いつもカンニングという行為をしていました。ただ、私がカンニングをするのは、解答用紙を全部埋めたあとです。その行為をしたあとに答えを書き直すことはありません。まず右の人の机を見ます。考えているふりをしてシャーペンを顎に当てながら。次に左の人を見ます。消しゴムで何もないところを消しながら。だいたい私より点数が悪いことは見れば分かります。それ

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眠気

 眠い。眠いときは目を開けている時間が長いということで、すべからく目が疲れている。目が乾きやすく、ぎゅっという瞬きをするようになって、しばらく目を閉じているとじわりと涙の膜を感じる。まぶたがいつもより分厚い気がするし、目の下の隈もくっきりしている。ただ、いくらたくさん寝たところで、目の下の隈が消えることはないのだけれど。頭はぼうっとして、思考の半分近くは眠いという本能に奪われている。そんな中でも一

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ブレイク

 たまには何も考えずに、ただ時を過ごすことに集中する時間があったっていい。休日の朝にアートブレイキーを流しながら、コーヒーがフィルターを通り抜け、一滴ずつ作られていく様子を眺めているような時間だ。不安や心配事はいくら眺めていても飽きさせないものだから、さらさらとメモに書いて頭の中から出て行ってもらう。そしてただ時間を過ごしていると、体の中から余計な力が抜けていき、歪がなくなると自ずと自分のすべきこ

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鮮やかに

 大学生の夏、同級生だった友人が亡くなった。急性心不全らしい。自殺という噂もあった。中学まで同じで、私は進学校に進み大学へ行ったが、彼は高校を卒業したらバンドマンになって、レンタルショップに並ぶCDを見ることもあったし、音楽で食べていけるくらい順調だと聞いていた。午前の授業をサボって惰眠を貪る私よりは、ずっと彩りのある人生を送っていたはずだった。

 ショックだった。悲しい悲しい悲しいと言う文字が

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逃げる

 買い物帰りに川の上の橋を歩いていると、河原でランニングをしている男がいた。湿気を含みつつも、ひやりとしてきた秋の風が、外を走るには気持ちのいいシーズンだと思った。ランニングの男は最初、橋の下から現れて、白いシャツを着た上半身だけが見えていたが、下に履いているものはジャージではなくジーパンだった。白シャツにジーパンで河原沿いを走る男、まるで何かに追われているみたいだなと思った。

 しかし何に追わ

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声響き

 おばさんの声はこの家の中でよく響いた。この家の構造上、一番よく通る声の出し方を知っているみたいで、柱や天井が共鳴してどこに居てもおばさんの声が聞こえた。少し鼻にかけたような低く張りのある声で、それは動物たちが遠くの仲間に危険を知らせる呼び声を習得するかのごとく、長年この家で暮らしてきたおばさんが習得したものだった。

 おばさんの家には、お盆とお正月に親戚が集まってくる。同じ年くらいの従兄弟たち

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滑らかな体

 体が滑らかに動くと、延長線上の自転車は油を差したようにペダルがよく回る気がするし、筆も絵の具の伸びがいいのではないかと思えた。彼はそんなことを考えながら自転車を漕いで登校した。

 高校の校門を通り抜ける。駐輪場に自転車を停める。昇降口から階段を上がり教室に入る。自分の席に座る。多くの生徒とすれ違ったが、彼は誰にも挨拶しなかったし、また誰も彼に挨拶をしなかった。彼は教室で孤立していた。会話の能力

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唾液

 救急車のサイレンに唾液が出る。サイレンがだんだん近づいてきて、ごくりごくりと生唾で喉が潤う。

 この現象は何だろう、サイレンの赤から梅干しでも連想したのだろうか。しかし生まれてこの方、そんなことは一度も無かった。

 心当たりがあるとすれば、この前職場でボクは貧血だか過労だかで、ばったりと大の字で寝転がってしまった。意識がなかったので覚えていないが、皆パニックになって、危うくボクの元気な心臓

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