滑らかな体

 体が滑らかに動くと、延長線上の自転車は油を差したようにペダルがよく回る気がするし、筆も絵の具の伸びがいいのではないかと思えた。彼はそんなことを考えながら自転車を漕いで登校した。

 高校の校門を通り抜ける。駐輪場に自転車を停める。昇降口から階段を上がり教室に入る。自分の席に座る。多くの生徒とすれ違ったが、彼は誰にも挨拶しなかったし、また誰も彼に挨拶をしなかった。彼は教室で孤立していた。会話の能力が欠乏しているわけではなく、むしろ彼はその気になればこの教室で誰よりも饒舌に話すことが出来るだろう。孤立するには信念が必要である。彼が学校に来るのは授業を受けるためと、絵を描くためであり、その情熱の延長線上には誰も居なかっただけで、この場合は孤独ではなく孤高というのかもしれない。明るく染めた髪を無雑作にうねらせて、絵の具の飛び散ったシャツの袖をまくり、授業の開始まで彼は机に突っ伏していた。

 放課後になると彼は一足で美術室に向かった。今日はいい絵の描ける予感があった。美術室を見回して、自分のスケッチブックを探すが見当たらない。
「なあマチ、俺のスケッチブック知らないか?」
マチと呼ばれたその女子生徒は彼が学校で話しかけるほぼ唯一の存在であると言えた。
「さあ、今日は授業があったし準備室に入れられたんじゃない?いつも放っておくからだよ」
「準備室の鍵は?」
「締まってるよ、取ってこようか?」
「早急に頼む」
「急ぎなら自分で行きなよ、廊下は走りませんので」
と言いつつマチは鍵を取りに行った。彼が職員室に行くと、髪やら服装やら何かと小言を言われるので、行きたがらないのだ。手持ち無沙汰な彼はチョークを手に取って黒板を撫でた。いつもよりチョークの粉すらきめ細かい気がした。マチが戻ってくる頃には黒板には一本の樹木が根を張っていた。黒板一杯に、低く広く枝を伸ばしていた。
「調子はどう?」
とマチが聞くと、
「悪くない」
と彼は答えた。準備室でスケッチブックを見つけると、
「ちょっと絵のモデルになってくれないか?」
と彼はマチに言った。
「嫌だよ」
「全部脱げとは言わないからさ」
「絶対に嫌だ」

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