東京大学文学部小林真理ゼミ

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【総集編】17人の東大生が「遊び」について考えた17日

こんにちは。広報の林です。 改めてみなさま、この3週間私たちのリレーエッセイにお付き合いいただきありがとうございました! 17人の「遊び」への向き合い方は様々で、私自身毎日とっても楽しんでいました。 本日は、もう全部読んだよって方にも、まだ読んでないよって方にもエッセイの魅力が今一度届くよう、それぞれのnoteの素敵な部分を抜粋してお届けします! (そもそもどうしてリレーエッセイを書いてたの? 小林真理ゼミって何者?って方は、まずはこちらのnoteをご覧ください。)

    • エッセイ「あそび」

      先日、カシミヤの糸を使ったスヌード(首巻き)を作る手織りの体験をした。きれいな色の糸が並べられているのに引き寄せられた。なぜやってみたいと思ったのかはわからない。機織り機のようなもので織るのだが、織るときに、あまり力を入れて目を詰めてはいけないのだそうだ。カシミヤの柔らかい触感を出すために、使う前に一度洗濯機で洗う。糸が上手に絡まるようにするには、織りに適度な余裕が必要なのだと言われた。その余裕というか、余白というか、あそび、間(ま)、を上手に作らないとふわふわっとした触感が

      • 遊びはガチでマジ

        この前、「風邪をひいているなら休め」と言われ、予定がなくなって、世界が少し軽く見えました。遊びには余白という意味もあるのだから、多分遊びの原義的なものってきっと、本気でないというか無目的で無意識的なもので。だとしたら今のような時間が遊びなんだろうなとか思いました。でもそんな遊びのただ中にいても私は、これから忙しくなるからこのままカフェに行ってゼミでやることを先に終わらせようとか考えてしまって。 もしかして私は遊びなんて知らないのかもしれません。 目的や目標のない時間に身を預

        • 魔法少女になれなかった私

          私は魔法少女になりたかった。 そして、なれると思っていた。 いつか、その時が来たら、妖精が迎えに来て、凡人の私は凄い力を持った特別な存在になって、退屈な世界は劇的に変わるのだと、そう信じていた。 そして、 気がついたら大学生になっていた。 えっ ※魔法少女になれるのは高校2年生までです。(当社調べ) なぜ、選ばれなかった? どこで道を誤った? 私が受験勉強をしていた間にも、魔法で戦っている子がいたと思うと悔しさがこみ上げてくる。なんで私はシャーペンと参考書で、お前は魔

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        • リレーエッセイ「わたしと遊び」
          17本

        記事

          責任ある遊び、ということ

          このリレーエッセイのテーマを聞いた時大変驚いたのを覚えている。 「わたしと阿蘇火」、 遊びをテーマにしたプロジェクトだから、エッセイのテーマは阿蘇火!そう思いついたときのTwitter担当、林さとみのキラキラした顔が目に浮かぶ。それは安易だ林、林安易さとみ。 しかし林アン太郎の安易に文句を立てていてもしょうがない。本題に入る。 阿蘇火については、これまでの人も書いてくれているだろう、熊本県は阿蘇市にて8月18日に行われた「大阿蘇火の山まつり」のことである。2016年から昨

          責任ある遊び、ということ

          ばらばらになる

          気付いたら、ばらばらになっていた。 目の前にある川べりの階段も、そして、わたしも。 冬を前に、実家の近くの川べりの道を歩いていた時だった。 何ヶ月か前の夏の終わりの夜、ここで、友人と、スマートフォンで映画鑑賞をしたことを思い出したのだ。 今にも夏が終わりそうな風にあたりながら、その季節にぴったりの映画を見ていた時のこと。 その時その瞬間に、夏が終わるんだという寂しい気持ちを抱えていたわたしと、突如として映画館になった川べりの階段が、ぐちゃぐちゃに1つになった断片。 冬を目

          イナリタビソア!

          あそびのはじまり ねー! バナナスーツは2着あると 友達も着れる。 なんでも2つあると便利。 1つしかないときは半分ずつ。 え、こわいよう… 今日なんかちがう。 イナリタビソア! ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー このnoteは、東京大学文学部小林真理ゼミが 「わたしと遊び」をテーマに書いたリレーエッセイ第12回です。

          次の週末は木登りしよう

          「自分のからだでもっと遊んであげよう」 これはコンテンポラリー・ダンスカンパニー「コンドルズ」主宰の近藤良平さんの言葉である。 私はハッとした。自分は五体満足で生活しているのに、体で十分に「遊べて」いないのではないか。重いリュックを背負って下を向いているばかりの大学生活で、私の体はすっかり縮こまってしまっている。立つ、歩く、座る、荷物を持つ、、、体の使い道がたったこれだけだなんて。 ふと思い出す。いや待てよ、小さい頃の自分って体を動かすことを純粋に楽しんでいたんじゃない

          次の週末は木登りしよう

          適当のすすめ

          日々の生活の中に「遊び」を作り出す手っ取り早い方法のひとつに、「自分ルール」を設けることがある。 毎日通る場所にある何かを観察し続けるとか、道で全国交通安全運動のテントを見つけたら毎シーズン必ず写真を撮るとか、どんぐりがあったら拾うとか。 そういえば、たしかみうらじゅんが、「すでにルールのある趣味にはお金がかかる。だから自分でルールを作って遊べばよい。例えば街中の『since ~』の文字を見たら写真を撮るとか」みたいなことを昔雑誌で言っていた。(趣味を始めたいけどお金がな

          「待ち」の美学〜改札前、いかに”クール”に佇むか〜

          一日の中にはいろいろな「時間」があります。 食べる時間、移動する時間、授業を受ける時間、友人と話す時間、読書する時間、そして寝る時間・・・ この中で最も退屈な「時間」はなんでしょうか。 私にとってそれは「待つ時間」です。共感してくれる人も多いと思います。 「待つ時間」、それは無限にも思えるほど長いものです。 その時間、私はいつもこんなことを考えています。 ーいかに”クール”に待つか。 "クール"に待つこと、それは読んで字の如く、カッコよく待つということです。“クール”

          「待ち」の美学〜改札前、いかに”クール”に佇むか〜

          遊んでるつもりの僕たちに

          いきなりで申し訳ありませんが、 今からこの記事を読もうとする皆さんって「遊び」をしていないわけではありませんよね? いや、僕たち小林ゼミでは「遊 VIVA!プロジェクト」と銘打って、本郷キャンパスでみんなが遊べるような環境を作ろうとしているわけなんですが、 別に普段から遊んでいますよね?? 毎日勉強しかしてない東大生なんて正直出会ったことありません。 みんな、どこかしらで日々の生活の息抜きとして、ゲーム、カラオケやボーリング、飲み会、ショッピングをして、メンタルギリ

          遊んでるつもりの僕たちに

          外遊びが好きじゃなかったあの頃の私に伝えたいこと。

          「遊び」と言われて思い出す記憶がある。   「せっかく晴れているんだから、外で遊んだら?」 小学校の休み時間、教室で本を読んだり絵を描いたりして過ごしていた私は、しばしば先生にそう声をかけられた。私の通っていた小学校では、晴れた日の休み時間は外で遊びましょうということになっていた。 当時の私やクラスメイトにとって、休み時間に外で遊ぶといえば、鬼ごっこ、サッカー、ジャングルジムなどの遊具遊び、一輪車… 言ってみれば体を動かす遊びである。運動とも言えるだろう。 だがしかし

          外遊びが好きじゃなかったあの頃の私に伝えたいこと。

          バカで壮大な『遊び』の話

          素敵な文章が続く中恐縮ですが、改めて気づいたことをちょっと書いてみました。 遊びってなんだろうって、このエッセイを書いてって言われてから結構考えました。 『遊び』は自分が楽しくなること、おもしろいと感じること、好きだと思うことをすることかなって思いました。 私はYouTubeを見るのが大好きなんですけど、YouTuberって『遊び』を全力でやっている人たちなんです。『遊び』なのに全力でやるから、見ていておもしろいんだと思います。側から見ると何してんだって思われそうな、バ

          バカで壮大な『遊び』の話

          走りゆく子どもたちの背を追いかけて

          1.テーマ(「わたしと遊び」)とこの文章について1.1.「遊び」について書く遊び (注1)  「わたしと遊び」がこの一連のリレーエッセイの共通テーマだ。自分と遊びがどのような関係性を持っているか、自分にとって遊びは何を意味するのかを、自らの経験と照らし合わせながらゼミのメンバーが書き連ねていく。だが、決められているのはほとんどそれだけで、形式も字数も自由である。この自由は大切なものだが、あまりに自由すぎてなかなか書き進めることができない。だから、必然的に自分で形式や字数を決め

          走りゆく子どもたちの背を追いかけて

          四季折々の遊びの提案

          スラシー・クソンウォンによる《GOLDEN GHOST(WHY I’M NOT WHERE YOU ARE)》、あんなに「遊び」に近接した芸術作品はないと思う。鑑賞者は作品の中に入って9本隠されているという金のネックレスを探す。もし見つけたら持ち帰ることができるが、探すのは5トンもの糸くずの中。 絶望的な宝探しは、でもとても楽しかった(もちろんこの作品には金の亡者をうみだす資本主義への皮肉が込められていて、自分がそれにまんまと乗っていることへの反省も促されたが)。 スラシ

          四季折々の遊びの提案

          「遊び」の出発点

          小さい頃、わたしは「遊び」が苦手だったように思います。友達や先生の言うことにただ従う、「従順な子」。そこに、自分の希望はあまりありませんでした。 多くの人は、大人になるにしたがって、「遊び」を忘れてしまうといいます。でもわたしは、歳を重ねて、自分の考えが育つにしたがって、「遊び」を覚えていきました。 特に大学生になって、自分にとって本当に自由な時間がたくさん生まれました。高校までは、「勉強」という枠で高い位置にいくことが、大きな価値でした。が、東大合格を最後に、勉強の目標