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走りゆく子どもたちの背を追いかけて

1.テーマ(「わたしと遊び」)とこの文章について

1.1.「遊び」について書く遊び (注1)
 「わたしと遊び」がこの一連のリレーエッセイの共通テーマだ。自分と遊びがどのような関係性を持っているか、自分にとって遊びは何を意味するのかを、自らの経験と照らし合わせながらゼミのメンバーが書き連ねていく。だが、決められているのはほとんどそれだけで、形式も字数も自由である。この自由は大切なものだが、あまりに自由すぎてなかなか書き進めることができない。だから、必然的に自分で形式や字数を決める作業が必要になる。無限に思える広がりの中から諸条件を限定していくこと、その定められたしつらえのなかで時に枠組み自体も改変しつつ漂うように書くこと。これは書くという営み、そして飛躍を承知でいえば、遊びの本質である。以下の文章は「わたしと遊び」を主題とする文章だが、それと同時に書くという「わたしの遊び」の名残でもある。今から私は誠実に遊び、この文章をできるだけ豊かな残滓としてあなたがたに届けるように努力する。だが、この遊びは残念ながら大雑把なものになるだろう。大雑把にならざるを得ないのはこの文章を書くにあたって定められているもうひとつの事柄=〆切のせいだ。結局、〆切を少し過ぎながらこの文章は書かれているのだが、それにしたって〆切はものを書くことにとって無視できない障害である。しかし、それと同時に〆切があるから書けるという面もある。取り急ぎ、いまここまでの思考としての以下の文章を私の今日の遊びの成果物としたい。

(注1) ここで書いている事柄、そしてここから書くことの一部は千葉雅也の議論に負うところが多いが、彼の発言を正確に引用しているわけではない(大雑把なので)。詳しくは、文藝春秋から出版されている『勉強の哲学』や『メイキング・オブ・勉強の哲学』を読むと良いだろう。

1.2.「noteらしくしない」「子どもの遊び」
 この文章はnote的文体を採らずやたら長く書かれる予定だ。これは私がいま勝手に決めた形式面の条件であまり深く考えずに定めたものだ。強いて言えば私が天邪鬼であることが理由と言えるかもしれない。ただこのリレーエッセイは「東大 遊VIVA!プロジェクト」のメンバーが執筆しているものの宣伝を主目的にしないと銘打っている。それならば、好きなことを好きなように思う存分書くのが良いはずだ。結果的には、noteというメディアに打ち負かされてこの戦略は大した効果をあげないかもしれないが、一旦試しにやってみるということが書くのにも遊ぶのにもきっと大事だろう。

 さて、次は内容についての足場を作る。この文章では「わたしと遊び」を「いまの私が遊びをどのような営みと捉えているか」と言い換えた上で、思考の足がかりとして子どもの遊びを参照したい。実は個人的に最近子どもと遊んだり、遊ぶ様子を目にする機会が多く、その様に驚かされていた。せっかく遊びについて考えるのならば、子どもたちの遊びをよすがに、私たち「大人」が遊ぶ道を考えていきたい。子どもといえば遊ぶものであり遊びといえば子どもがすることである、と言ってしまえるくらいに両者は結びついて考えられる。先生は「休み時間なんだから外で遊んできなさい」と言い、同級生は「あそぼーぜ!」と叫び、母親は「遊んでないで宿題やりなさい!」と怒鳴る。こんなテンプレート的な情景は子どもと遊びの近さを示しているだろう。それに対して、大人と遊びは遠いものとして考えられるだろう。大人のする遊びといえば「女遊び」や「遊び人」など遊興になってしまい、そういう遊びはあまり好ましく思われない。試しにネットで「大人 遊び」と検索してみると意外に多くの健全なページがヒットするけれど、「面白い遊び101種類!大人・社会人が外や室内でできる楽しい遊び」や「東京でしかできない88のこと 探索と発見を楽しむ。東京遊びのススメ」「大人も楽しめる!休日に出来る遊び50選|社会人や学生におすすめ!」などのサイトが出てくる。なんだかこれらの見出し自体がかつて子どものころにあった「遊び」や「遊び場」から受け取るものとはどこか食い違っているような感じがする。そして、子どものように遊ぶのは大人にとって憧れかつ困難でありうるのかもしれないと思う。母親が「遊んでないで宿題やりなさい!」と怒鳴るときに現われる子どもの遊びへの怒りも、ある程度は彼女がもう大人でありなかなか昔のようには遊べないことによるのかもしれない。

2.子ども[は/と]どのように遊ぶか

2.1.子どもは走りながら遊ぶ
 子どもは走る。走るなと言われても走るし、走っていいと言われても走る。やたらと走る。どこかに急ぐわけでもなくただ走り回って遊んでいる。時々ゆっくり動く子どもがいるが、そんな子どもを見かけるとなんだか不思議な気持ちになる。落ち着いていてどことなく大人みたいだ、と思うのは「子どもは走るものだ」という前提があるからだろう。彼らは遊びのなかで走っているのか、それとも走ることそれ自体が遊びなのか。きっと両方あるはずだ。子どもたちは「走るために遊ぶ」と「遊ぶために走る」を行き来しながら、時間を過ごしているように見える。例えば、「鬼ごっこ」という遊びの中には必然的に走る行為が含まれている。あの遊びを選択すればそれは必然的に走らなければならない。素晴らしい発明だ。過去の子どもたちはそうやって走ることの中に遊びを見出し、遊びの中に走ることを組み込んだのだろう。

 自分の昔のことを思い出す。自転車を持っていなかった小学生の僕は、自転車に乗って前へ前へと進んでいく同級生の背を走って追いかけていた。放課後に集まって近所の公園を転々としながら、みんなの後ろを走る毎日。いじめられていたわけではないが、今となってはなんでそんな不条理にまじめに付き合っていたのか分からない。21歳の私はできれば走りたくない。この間急ぎの用で駅の階段を駆け上がったら左膝をやらかしてしまい、何日か階段の昇り降りが大変だった。やっぱり走るのはやめとこう、と思う。でも、その頃の僕は笑いながら走っていた記憶がある。それは走ること自体を楽しみ、遊びとして受け取っていたことの表れかもしれない。ただ走るだけでそれは遊びになった。その後、まだ自転車を買ってもらえない僕は友達に自転車を借り練習をして乗れるようになると、走る役は友達に無理矢理引き渡し自転車を漕ぐようになった。文明の利器を手に入れても根源的にあるのは走ることへの欲望だった。どこまでも走って行こうとしていた。夜に街を駆け抜ける暴走族だって、高速道路で訳もなく追い越し続けるスポーツカーだって、幼い頃走っていた時の自分を遠くに見ているのかもしれない。うるさくて迷惑だけれど、あれは彼らなりに遊びを求めた結果である可能性に思いを致す。

 このように子どもは走りながら遊ぶ。だが、それは文字通りの脚を使った走りだけを意味するのではない。彼らの手や目も同時に走っている。子どもの感覚はあらゆるものの面を走っていく。彼らにとって周りの世界は凸凹を持った外部であり、その感触を手や目を走らせることで感じている。自分の周りにあるあらゆるものを触り、あらゆるものを視る。そうして世界を知っていく。ベタな話だが「大人と子どもの体感時間の違いは既知の事柄の量による」というのは、そういう手や目の走りの結果のことを言っているのだろう。そう考えると、子どもたちの感覚により近づけるなら、彼らは全てを凸面として認識している、と表現した方が良いのかもしれない。大人になるにつれその凸面がどんどんへこんでいく。あるいは、もともと図だったものが地になっていく過程。それは知識の獲得と社会性の構築とパラレルだ。既に知っているから興味を惹かれない。たとえ関心があったとしても大人として触るわけにはいかない。そういう枠組みが自分の周りに作られていく。社会化されていく。けれど、子どもにそんなことは関係ない。お茶をこぼしたり、玩具を壊したりしながら、外界との接触をはかっていく。彼らは良い意味で欲望に忠実であり、全身で/が走っている。

2.2.子どもは作り作られながら遊ぶ
 子どもはただ走っているだけではない。走りながら自分なりのルールや世界を作っている。何のために走るのか。怪物から逃げているのかもしれない。ずっと向こうに追い求めていた武器があって、そこに向かっているのかもしれない。ふと目についた道端の窪みにはどんな意味があるのか。敵軍の砲口か、はたまた宝の埋まった洞穴か、もしかしたら追っ手から逃げるためのワープホールかもしれない。彼らは目の前に現れるいろいろな選択肢に対し一瞬一瞬で答えを出しながら走り続けている。そういえば、先に例として出した鬼ごっこもはじめは誰かによって作られたルールであり世界だった。それがずっと遊び続けられていくなかで、子どもたちは定められたルールを勝手に改変したり自分だけの世界をつくりだしたりしながら遊んでいる。アニメで見たバリアが導入され、校庭脇の草むらの中でバリアは無効化されるようになり、無効化されたバリアはある一定の手続きを踏めば回復するということにされる。そのような変化は子どもたちが主体的に選び取ったものであるかもしれないしかつ都合の良いアドホックなものなのかもしれないが、ある種の受動性を抱え込んでいる。外部から与えられた変化が彼らに判断を迫っているのだ。すなわち、遊びの中でルールや世界を作っていくことは、自分が作られていくことと表裏一体だ。鬼ごっこの例はささやかなものだが、外部からの刺激をインプットしそれに対する判断を下していく過程において、子どもたちは様々な感覚を知り成長していく。自分の決めたルールや世界観からズレたものが侵入してくる。そうして自分の見方を修正していくことを余儀なくされるしそのような修正はすなわち自らの変化である。

 私は電車に座ってボーッと周りを眺める。窓の外を見たり、同乗者を見たり、どこというわけでもなく目を運んだりしている。すると、正面に座る男性の仕草が目に飛び込んでくる。彼は熱心にひたすら鼻をほじって鼻くそを掻き出している。そうして掻き出した自分の鼻くそをしげしげと見つめて口に運ぶ。ほじって、見つめて、運ぶ。ほじって、見つめて、運ぶ。その繰り返し。全くもって理解できない行動であり、今すぐその手を取り押さえてしまいたい衝動に駆られる。汚いからやめなさいと親のように注意したくなる。彼のそんな姿から目を背ければいいのだけれど、なぜか気になってしまい背けることができない。そうした時、例えば、私はこの男性を「鼻糞食男(はなくそたべお)」として馬鹿にすることもできる。自分の世界にはいないはずの人間として笑って済ませることは楽だ。けれど、私は彼の行動を真面目に捉えて悶々とすることを選びたいのだ。どんどん遊びから話が逸れていると思われるかもしれないし、実のところ本当に脇道へ逸れているのかもしれない。だが、これは重要な脇道だ。自分の持っているルールとは違う、自分の世界観では理解できない人や物を目の前にしたとき、よく遊べる(=自分を作り変えられる)ようにいることが大切な気がする。突然現れる世界の凸面に対して不感症でいたくない。そして、作り変えられることの恐怖に立ち向かいながら、飛び込んできた事態を前に悶える忍耐強さを身に付けたい。そのとき、身の回りのあらゆることに対して反応し、作り作られる子どもの遊ぶさまは希望のひとつになるのではないか。

2.3.ふた通りの「子どもと遊ぶ」
 ここまで、主に子どもがどのように遊ぶかを見てきた。子どもはあらゆる感覚において走っており、感覚した刺激をもとに世界を作り出している。それは自分が作られていくことと重ね合わせの事態だった。それでは、次に大人が「子どもと遊ぶ」ことについて考えてみよう。この「子どもと遊ぶ」にはふた通りのあり方が存在するのではないか。一つは子どもを対象として遊ぶこと。つまり、世話をしてやる対象としての子どもと遊んであげる(ここでは「あげる」と表す)こと。そして、もう一つは子ども的世界に没入して子どもと向かい合って(子どもになって?)遊ぶ(ここでは〈と遊ぶ〉と表す)ことだ。対等な遊び相手としての子ども〈と遊ぶ〉。思い返すと、中学生くらいまでは自然と没入的に〈と遊ぶ〉ことができたはずだ。例えば、小学6年生がたてわり班の小学1年生と遊ぶときを考えてみよう。もしかしたら「大人気ない」やり方で、本気でちびっ子〈と遊ぶ〉をしていたんじゃないか。かくれんぼで隠れきれなかったちびっ子を容赦なく見つけたり、サッカーで小学1年生にとってはえげつないドリブルをしたりするお兄さんは嫌なやつかもしれないが、遊びの中に没入して〈と遊ぶ〉を追求していたのだろう。その一方でちびっ子に優しくしかし〈と遊ぶ〉を可能にする道もあったはずだ。すなわち「お世話」というフレームを遊ぶことで子どもと遊んでやるのと同時に〈と遊ぶ〉を実現していたのではないか。かくれんぼで隠れきれなかったちびっ子に「今なら逃がしてあげるよ」とか「一緒に隠れている人を探そう」と示すことは、一見遊んであげているように見えるし、実際遊んであげているのだろうと思う。けれども、その「あげる」はこの時点ではすごくごっこ遊び的に思える。その場でちびっ子のためにルールを設けることや優しさを見せる大人的な振る舞いをすることそれ自体が遊びになっていると言っても良いのではないか。表面上はお世話をすることで。だが、そのようなお世話を遊ぶという層を作ることで子どもはだんだんと大人になっていく。最初はメタ的に仮構されていた「あげる」が子どもと遊ぶことと分かち難くなってしまい、それ自体を遊ぶことができなくなる。子どもは自分が作った枠組みによって大人へと作り変えられていくのだ。それは同時に周囲の社会からの要請でもある。「お兄さん」「お姉さん」という言葉で形容されるようになり、「あげる」ことを要請される。そして、制度的にも大人になると「あげる」は「ごっこ遊び」ではなく子どもを育て保護するという具体的かつ社会的な責任になっていく。かつ子どもも大人を自らを守るものとして捉える。そのような保護-被保護の関係性が両者に取り結ばれていることに気づかないまま、再び〈と遊ぶ〉ことは不可能だ。この間、子どもと遊んでいるときにはしゃぎすぎて泣かれてしまったのは〈と遊ぶ〉を無自覚に目指してしまったからなのかもしれない。いくら〈と遊ぶ〉を目指していても身体は大人だ。子ども的世界に戻ることは一筋縄ではいかない。

3.子どもなしで遊ぶために

 では、大人はもう昔のように遊べないのだろうか。走り、作り、作られる子どもとしての遊びをもう得ることはないのだろうか。私はここでそんなことはないと主張したい。

 唐突だが私の個人的な話をしよう。私はこの1年ほど俳優として演劇創作に携わっている。大学の友人などとやっている散策者という劇団での活動が中心になっているのだが、私たちは「遊び」というキーワードで望ましい演技/上演のことを表現することがある。演劇は二度と同じ上演は見れないという一回性と、ある期間のうちに何度も上演が繰り返されるという反復性が共在する芸術ジャンルだ。その両方の性質とうまく付き合うために稽古(作品の創作と練習のための時間)が存在する。一回一回の上演が異なるものにならざるを得ないからといって、毎回のパフォーマンスが単なる即興であってはいけない。即興は何も決まっていないからこそ面白くなる可能性も秘めているが、それと同時にクソつまらなくなる可能性を持っており、このままでは反復性に立ち向かうことはできない。しかし、反復に堪えうるようにとガチガチに演技を固定してしまうと、一回一回異ならざるを得ない演劇のメディア的特質を無視しているがゆえに、演技が持っている本来の跳躍力を発揮することができない。だからこそ、決められた枠組みの中で「遊ぶ」ように演技(=演戯)することが要請される。この俳優/美術/音楽と関わりながら既に書かれたテキストを発話するという枠組み/場が設定される。そこで出会う相手の未知の演戯を受けて自分も今までしていなかった(けれど今までしていたかもしれなかった)演戯をすることになる。そうやって反復に耐えうる強度と跳躍力を手に入れるのだ。そのことを私たちは「遊び」と呼び、毎回の上演においてどう遊べるだろうかと夢想するのだ。

 自分がやっていることだけを取り上げるのはフェアでない気もするから別の例を出そう。わざわざ名前を出すのも恥ずかしいが中村佳穂といういま話題のアーティストがいる。彼女のライブに行って音楽を聴くとまるで遊びのようだと感じる。実際に立ち会わないとその感触は掴みにくいと思うが、動画を見るだけでもその一端はわかってもらえるだろう。


 彼女の歌や演奏は身体のうちから湧き出てきているような感触を受ける。MCと歌はもはや区別もつかず渾然一体となっている。思考とともにもしくは思考の前に歌があり気づいたら声が出ているように感じられる。そういう風に、走るように歌い演奏する彼女の姿のなかに走り回って遊ぶ子どもをみてとる。彼女は一見自由に歌っているように見える。もちろん持って生まれた声の特質や優れた歌唱や演奏の技術がその自由さをもたらしている部分はある。けれど、完全なる自由の中にあるわけではない。彼女の周囲には楽器や楽曲という外在化された道具や形式、そして他のバンドメンバーや観客が存在する。先ほど挙げた歌唱の技術も道具的に捉えることが可能であろう。そのような外部の存在によって、彼女と他者との関係性が生み出され彼女を刻一刻と作り変えていく。一定の取り決めがあるからこそ普段出会えないような自分/相手に出会うことが可能になるのだ。そのような必然的な偶然の出会いを目の前にして、私たちもまた作り変えられていく。

 上にあげたどちらもそれぞれ営みの内実は違えど遊び(play)と表せる行為であることは偶然ではないだろう。これらの営みには遊び性が含まれており、それを現実化するための仕組みが存在している。演技のための場や演奏する楽曲といった枠組みを作り、その中で自由に遊んでいるのだ。私たちは、作り作られながら遊ぶ子どもにならって、遊ぶためのしつらえを自ら作り出していく必要がある。自然に内から出てくる衝動などもうあてにはできない。丁寧な外在化によってしつらえをこしらえることで遊びは可能になるし、そのしつらえは私たちの社会性を剥ぎ取る一つの基盤になりうる。我々は子どもから大人になる過程で社会を知ってしまった。ある規範の集合体としての社会が自分の身体に内在化している地点から離れて遊ぶためにはそれ相応の仕組みが必要なのだ。そして、他者化されたしつらえのなかでは自分が新たに作り変えられることになる。同じしつらえにやってくる他者や他者としてのしつらえからの刺激を受けて、作られながらそのしつらえに居ついたり離れたりする。そういう場に自らを投げ出すことが挙げた例では行われているのだ。

 私たちが「東大 遊VIVA!プロジェクト」で行うのも、本郷キャンパスの中にそのようなしつらえを作り出すということだ。畳が居ついたり離れたりするための装置となり、図書館前の広場における私たちの身体の使い方を少し違った角度にする。幾つものライトが三四郎池を昼間とは異なる姿に変え、場所との新たな出会いを創出する。これらはささやかなしつらえである。大きな建築が出来るわけでも、新たなルールが制定されるわけでもない。ただそこにわずかなものがあるだけ。けれど、そんなささやかなところから遊びは始まる。私たちのしつらえは背中をそっと押すだけのものに過ぎないから、結果的にどんな遊びが起こるか/起きないかはわからない。でもきっとこのプロジェクトで我々は走りゆく子どもたちをしつらえの中に幻視する。そしてまた、我々は、ひょっとするとあなたも、どんどん遠ざかる彼らの背を追いかけて遊ぶことになるだろう。


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このnoteは、東京大学文学部小林真理ゼミが
「わたしと遊び」をテーマに書いたリレーエッセイ第5回です。

筆者紹介_長沼


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