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遊びはガチでマジ


この前、「風邪をひいているなら休め」と言われ、予定がなくなって、世界が少し軽く見えました。遊びには余白という意味もあるのだから、多分遊びの原義的なものってきっと、本気でないというか無目的で無意識的なもので。だとしたら今のような時間が遊びなんだろうなとか思いました。でもそんな遊びのただ中にいても私は、これから忙しくなるからこのままカフェに行ってゼミでやることを先に終わらせようとか考えてしまって。
もしかして私は遊びなんて知らないのかもしれません。

目的や目標のない時間に身を預けることがいつから不安になってしまったのでしょう。小さな時はそんな時間こそが幸福だったようにも思えます。


走らないための遊び

こんにちは!こんばんは!もしくは、おはようございます!このゼミのゼミ長、宮本です。
まあこのたび遊VIVA!プロジェクト(通称 遊プロ)を実施するゼミ生最後の回として「わたしと遊び」についてまじめに書いてみようかなと思います。

さて、みんなのnoteを読みながら、みんなの子ども時代がアクティブで驚いたんですが、私はとりあえず、走るのが苦手でした。鬼ごっことか嫌です。でも、一人で遊ぶのもつまらない。
そこで幼き私は、遊びを発明する必要がありました。

宝集めごっこ、高級ホテルごっこ、玉川上水作り、などなど。やり込みがいのある創作遊びをとにかく作って、友達や弟と遊ぶ子でした。

子どもの世界もシビアです。「こいつ、面白くないな」と思われるといきなり誰かがルール改変してきます。

「はい!俺スーパーバリア〜!」
とか
「今から特別ルール発動だから!」

とか。これをされると大変。だから、そう言われないくらいちゃんとみんなを楽しませる。そういう意識で遊んでいたことを思い出しました。

鬼ごっこより少し大変だけど、鬼ごっこより楽しかった。友達を集めて、やんちゃな子がいたらちゃんと仕切って、みんなが楽しめる世界を作る、そういうことが幼き私の日々でした。


おませな遊び

遊びの質が少し変わったとしたらこの頃かなと思います。
小学五・六年生の時の私の担任の先生は、クラスの係を自分達で自由に作りなさいと言いました。私は驚いて、でも面白そうだなと思って、新聞係を作りました。集まった友達に私には書けない記事を書いてもらって、私自身といえば朝日小学生新聞で気に入った記事を要約して小さな壁新聞にまとめていました。マセガキだったので、それをしながら自分の国語力を高めようとか思ってました。実際、あの頃毎週新聞を書いていたのは私の今の国語力の基礎かも。

先生が宮本さんの書く記事は面白いって言ってくれてたよ

母が個人面談で聞いたという先生の言葉が嬉しくて図に乗って、今度はクラスで教養テストみたいな企画をしたり。今その時のメモやら断片を見るとくだらないものなんですが、それを先生は認めてくれて、やっていいよと言ってくれて、応援してくれた。先生、その延長線に今の私がいる気がします。ありがとうございます。


いつだって遊び

話を戻して、そんなことを思い返しながら、私はいつだって遊んでいたなと思ったのです。
というと、真面目に生きていないみたいに思えるかもしれないけれど、いつだって本気(ガチ)で遊んできたのです。

一人になれば、今度友達あるいは弟と何して遊ぼうかと考えていた。今なら即捨ててしまうようなお菓子の包装紙とかなんとないプラスチックの部品とか、これはあれに使える!とか大事にとっておいて、工作したり。

先日演劇を観に行ったんですが、アンケートのペンの書き心地が良くて、思わずアンケートに答えてしまい、「ああこれ今度遊プロでアンケート取る時に参考になる」って思いました。

あれ、珍しいお菓子の包み紙を大事にとっていた私と変わらないんじゃないか。

子どもの頃大切に集めた物が、今となってみればガラクタに見えるのは仕方ない。宝箱の蓋を開けると、なんでこんな物がとってあるのか訳がわからない。でも言えるとしたら、あの時の私も真剣(マジ)だった。

私はいつも、今夢中になっている遊びのことを頭の片隅で考えている。そこから抜け出せないタイプ。中学受験も大学受験も、勉強を自分でゲームみたいにアレンジして楽しく取り組めた時、上手くいきだしたように思います。

なるほど、遊びって私にとっていつの間にか本気(ガチ)で真剣(マジ)でやってしまうもの。

今の私にとっての遊プロも、そう。

そして、そういう遊びって学びに繋がっている。


最近、子どもたちが動画を制作するプログラムを手伝っています。
(詳しくはこちらのmuseum startあいうえのムービー部をどうぞ)

そこで子どもを見ていて思うのですが、楽しいスイッチが入ると子どもは一気に走り出します。物理的にもそうだけど、抽象的な意味でもです。遊びと学びの歯車が回り出した感じ。その状態は無敵で、私には入る隙なんてありません笑。

遊びながら、学んでいた
学ぶことが、遊びだった
学んでは、遊んでいた

あなたにもそんな日々はなかったでしょうか?


ちょっと辛い思い出

さて、遊プロに取り組む中で、こんなことも思い出しました。
この記憶は、未だに口で話そうとすると泣いてしまうくらい、私にとっては血の味の思い出で、人に話すことなんてないと思っていたんですが。

私は高校で報道委員をしていました。報道委員会は、「報道」なんてカッコいい名前とは裏腹、毎月B4両面の娯楽ペーパーを高校生に配布する委員会でした。紙面の内容は委員に任されており、大抵高校生にとって委員会なんてめんどくさいから娯楽ペーパーになるわけです。今季のドラマ情報とか、今月はポッキープリッツの日!とか。
でも、私が高一に上がる春、3.11が起きて状況が変わります。私の学校が紙を買っていた工場が被災して、紙不足になったのです。だから、そんな娯楽ペーパーは必然的に配られなくなりました。とはいえ学校側も委員会をなくすわけにもいかず、壁新聞を作るようになりました。まあ、忙しい高校生達は誰も見ません。
高二に上がって私はその報道委員会の委員長になりました。震災を経て紙の大切さも分かっていたし、だからといって報道委員会の校内での存在意義は作りたい、嫌々でも委員になった仲間たちにやりがいを感じてほしいと思っていました。

そこで委員会を改革してやろうと意気込んで、企画を出して、先生にインタビューをしたり、学内のニュースを取り上げたり、まあ娯楽ペーパーに変わりはなくても、学生が読んで楽しめるものを作ったつもりでした。そうしたら、学生一人一人に印刷して配って読んでもらう意味が出来るはずだと思って。

でも、ダメだった。

印刷して配ってはダメ、壁新聞にしなさいというのが先生の主張でした。震災から一年以上経ち、もうコンビニに行けばお小遣いで全校生徒分のコピー用紙が買えました。でも、紙が無いから印刷できない、ダメだ、の一点張り。他の委員会の「講演会が何日にあります!」とかのチラシは印刷して配ってるのに、うちの委員会はダメ。

何度もお願いして、やっぱりダメだと言われた後、確か世界史の授業で、レジュメが配られて、裏が真っ白だし余ってるし、「ここに印刷できるじゃん」って思って、それで涙が止まらなくなって、机に突っ伏して寝ているフリをして、声を殺して泣いたことを覚えています。

あの時、誰か大人に教えて欲しかった。本当の理由を。どうしたら認めてもらえるのかを。

私が遊ばなくなった日はあの日だなと思ったのです。


自分の感受性くらい

何かやってみたい
でも誰かに止められるんだろう

いつからこんな思考になっていたのでしょう。
自由というものの厳しさが規則があってはじめて感じられることを思い出しました。
遊びも似ているのかもしれない。子どもの頃の遊びと大人の遊びは違うはずです。遊びとはとても呼べない時間を知っているからこそ、遊びの時間の難しさを知っているのかしら。

でも私は、全力で遊びたい。ガチ(本気)で、マジ(真剣)で、遊びたい。

まあそう思ってしまうけれど、私はまだ何も見えていないだけなのかもしれないなと結局そうも思います。


アート・プロジェクトを大学でやってみる

この遊びはとても簡単なように聞こえて、とても難しいことでした。
去年から準備していた私は、何度も無理なんじゃないか、誰もやりたくないんじゃないか、こんなの私だけのわがままなんじゃないかと思いました。
でも、例えば石井さんが

「やりましょうね!ゼミで出来なかったらなんか他とかでもやりましょう!やれますよ!」

とか謎の自信で励ましてくれるわけです。
私のしたい遊びは一人では出来ません。励ましてくれる仲間、まったく違う視点をくれる仲間、忙しいのに駆けつけてくれる仲間、色んな仲間がいてやっと、作れる何かだから楽しいと思う。面白いと思う。今、ここで、やってみたいと思う。

遊びには、仲間も大切かな。


もうとっくに、自分の感受性くらい自分で守らないといけなくなりました。

やっぱり、ガチでマジで遊んでいたい。


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このnoteは、東京大学文学部小林真理ゼミが
「わたしと遊び」をテーマに書いたリレーエッセイ第16回です。

筆者紹介_宮本

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