外遊びが好きじゃなかったあの頃の私に伝えたいこと。

「遊び」と言われて思い出す記憶がある。


  「せっかく晴れているんだから、外で遊んだら?」


小学校の休み時間、教室で本を読んだり絵を描いたりして過ごしていた私は、しばしば先生にそう声をかけられた。私の通っていた小学校では、晴れた日の休み時間は外で遊びましょうということになっていた。

当時の私やクラスメイトにとって、休み時間に外で遊ぶといえば、鬼ごっこ、サッカー、ジャングルジムなどの遊具遊び、一輪車… 言ってみれば体を動かす遊びである。運動とも言えるだろう。

だがしかし。私は体を動かすのが好きではない。運動は苦手な方だ。
今もそうだし、小学生の時もそうだった。

ときどき外に出て体を動かすのはかまわない。
先生に言われずとも、外で楽しく遊んでいたこともあったような気がする。
しかしながら、私にとって、晴れた日は必ず外で遊べというのは正直苦痛だった。嫌だった。

いつのまにか、晴れた日にうんざりするようになっていた。
外に出るのが嫌いだと思うようになっていた。



ここ数年のことである。
そんな私が、「晴れた日の外」が好きかもしれないと思い始めたのは。


そのきっかけの一つに、高校3年生の時の出来事があるように思う。
秋の晴れた日、クラスメイトと高校の近くの公園へ行った。一人の子がシャボン玉を持ってきてくれていたので、みんなでシャボン玉をした。その公園にはちょっとしたタワーのようなものがあり、それに登った。ブランコがあったから、座って前後にぶらぶら揺れながら、友達と他愛のないおしゃべりをした。

そんな中で、
晴れた日の空の青の気持ちよさを感じた。晴れた日の木々の緑がきれいだと思った。
走り回るなどして体を動かすことだけが外での遊びじゃないと知った。

一つ一つのことははっきりと覚えてはいないけれど、少しずつそのような経験が積み重なっていったのだと思う。
「晴れた日に外にでる」「外に出て遊ぶ」のが好きじゃなかった私は、

晴れた日の空が好きだと気づいた。晴れた日の緑が好きだと気づいた。
晴れた日に外に出て、ぽかぽかした日差しを浴びながら、あるいは心地の良い木陰を見つけて、友達とゆっくりおしゃべりするのも、一人でぼーっとして過ごすのもいいと思うようになった。


ここ最近、晴れた日が多い。歩きながら青い空を見ていると、授業間の建物と建物の移動ですら楽しい気分になってくる。そんなわけで、私はご機嫌である。


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このnoteは、東京大学文学部小林真理ゼミが
「わたしと遊び」をテーマに書いたリレーエッセイ第7回です。

筆者紹介_齊藤


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