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ばらばらになる


気付いたら、ばらばらになっていた。
目の前にある川べりの階段も、そして、わたしも。
冬を前に、実家の近くの川べりの道を歩いていた時だった。

何ヶ月か前の夏の終わりの夜、ここで、友人と、スマートフォンで映画鑑賞をしたことを思い出したのだ。
今にも夏が終わりそうな風にあたりながら、その季節にぴったりの映画を見ていた時のこと。

その時その瞬間に、夏が終わるんだという寂しい気持ちを抱えていたわたしと、突如として映画館になった川べりの階段が、ぐちゃぐちゃに1つになった断片。
冬を目前に控えたわたしの前に、夏の終わりの、わたしと川べりの階段の断片が湧き上がったのだった。

そうして、自分と場所の断片を目の当たりにしたわたしは、ばらばらになったんだと気付いた。

思い返してみれば、ばらばらになることは珍しいことでもなかった。

帰省してふと高校の前を通った時。

忘年会の後に酔っ払ってスキップした並木通りを歩く時。

毎年サークルの合宿で泊まる宿でも、毎年のように積み重なっていく自分と場所の断片を前にして、ばらばらになることはたくさんあった。


もっと思い返してみたら、ばらばらになるんじゃなくて、ばらばらにする時も、される時もあった。

人や場所を、役割や目的といった型によって、ばらばらにする時、される時。

例えば、あんまり興味のない授業を受ける時、単位を取るためだけの場所として、私は教室をばらばらにする。

バイト先で話す苦手なお客さんは、私のことを、どんなつまらない自慢話も受け止めて褒めてくれる二十歳の女子大生としてばらばらにする。

(必ずしも、気分が悪いとは限らない。)

ただ、1つ言えることは、ばらばらにする時もされる時も、どんなふうにばらばらになるのか、あらかじめ型によって定められているということ。

これに対して、ばらばらになる時。
型なんて用意しなくても、ありのままの形で、
わたしとそこにいた人しか、知らない形で、
その場所でしか、ありえない形で、
終わってみないと、わからない形でもって、
ばらばらになる。

わたしは、そういうふうに、
自分と場所が一体化して断片に、ばらばらに、なることが「遊び」なんだと思う。

小林ゼミは、そんな断片をこっそり隠せるところ=「余白」を、提供しようとしている。


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このnoteは、東京大学文学部小林真理ゼミが
「わたしと遊び」をテーマに書いたリレーエッセイ第13回です。

筆者紹介_若松

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