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適当のすすめ

日々の生活の中に「遊び」を作り出す手っ取り早い方法のひとつに、「自分ルール」を設けることがある。

毎日通る場所にある何かを観察し続けるとか、道で全国交通安全運動のテントを見つけたら毎シーズン必ず写真を撮るとか、どんぐりがあったら拾うとか。

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そういえば、たしかみうらじゅんが、「すでにルールのある趣味にはお金がかかる。だから自分でルールを作って遊べばよい。例えば街中の『since ~』の文字を見たら写真を撮るとか」みたいなことを昔雑誌で言っていた。(趣味を始めたいけどお金がない、みたいな若者からの相談に対する回答だった気がする)

現代美術家・会田誠がエッセイ「靄の中のジャンボ旅客機……」(会田誠『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』(幻冬舎文庫、2012年)に収録)で紹介している、彼の写真の撮り方のひとつもおもしろい。
彼ははじめて中古のカメラを買った二十歳の頃から、いくつかの「俺様ルール」のもとに平凡な郊外の風景写真を撮り続けてきたという。そのルールとは以下のようなものだ。
「まず『特別なもの』にけっしてレンズを向けない。構図を作ったりして格好いい写真にしない。主題があるかのように誤読されることは極力避ける。撮影現場の全体的空気感と、その一部を切り取った写真が質的になるべく同じになるように努める。ピントも露出も水平も正常で、全てがしっかり写っているのに、何も写ってないような印象を目指す——等」。

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「自分ルール」の裏テーマは「適当」だ。
例えばルール変更。ルールはいつでも更新されうる。はじめから変わらないものもあれば、途中で加わるものもある。途中から気にしなくなるものもあれば、人に指摘されて初めてルールだと気付くものもあるかもしれない。会田誠の「俺様ルール」には複数のルールを貫く理念が見えるけれど、あってもなくても楽しいだろう。
あるいは遊びの頻度。ずっと続けていると遊びなんだか習慣なんだか分からなくなってくることもあるだろう。でもまあ飽きたらしばらくやめたらいいし、またしたくなったら始めればいい。

不徹底さや適当さは、こういうタイプの「遊び」が日常の中にふんわりと存在し続けるために意外と重要なことなんじゃないだろうか。かの伝説的な映画『ホーホケキョ となりの山田くん』でも、藤原先生が「適当にね」と言っているし。

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このnoteは、東京大学文学部小林真理ゼミが
「わたしと遊び」をテーマに書いたリレーエッセイ第10回です。

筆者紹介_金子


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