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エッセイ「あそび」


先日、カシミヤの糸を使ったスヌード(首巻き)を作る手織りの体験をした。きれいな色の糸が並べられているのに引き寄せられた。なぜやってみたいと思ったのかはわからない。機織り機のようなもので織るのだが、織るときに、あまり力を入れて目を詰めてはいけないのだそうだ。カシミヤの柔らかい触感を出すために、使う前に一度洗濯機で洗う。糸が上手に絡まるようにするには、織りに適度な余裕が必要なのだと言われた。その余裕というか、余白というか、あそび、間(ま)、を上手に作らないとふわふわっとした触感が得られない。織り自体は60センチ程度のものだが、そこに「常に」ゆとりがないといけないということで、それを作るためにかえって力が入ってしまう。徐々に感触がわかってきて、思ったより早くできあがった。洗い上がりは上出来。試しにもう一度挑戦してみようと思う。


アート・プロジェクトを企画し、実現し、検証するという演習をやってみたのは今年が初めてだ。学生たちは昨年度から準備をして、五月祭で資金調達をして、その上でなんとか協賛金なども集めて自分たちの企画を実行・検証しようとしている。私の研究領域において、アート・プロジェクトが重要な方法としてクローズアップされてきており、実践面で注目されている。なぜアートプロジェクトなのか。アートプロジェクトは、越後妻有のトリエンナーレや瀬戸内芸術祭のような、大型の現代アートの祭典と同意語のように語られるが、違う。課題解決のためにアートを噛ませるということであり、それはそれでアートの手段化だという批判も大いにある。その課題もいろいろだ。生きているアーティストが活躍する場がないからだとか、アートが限られて人のものでありこれまでの文化施設建設では失敗だったとか、人口が減少していてコミュニティそのものが衰退しているとか、私たちから見えなくなっているものを見せるためだとか、地域経済が沈下していて新たな産業を振興したいとか、本当に様々だ。でもアートはそもそもそれらをテーマにはしてこなかっただろうか。アート以外の課題は、すでにいろいろな手が打たれてきたはずであるのに、その成果が見えない。アートプロジェクトは、最後の手段なのか、それとも最後のもっとも適切な方法なのか。どういう領域にアートプロジェクトは向いているのか。


学生たちと課題を話し合い始めたときに、彼女彼らが問題にしたのは、本郷キャンパスで起きた宇佐美圭司の壁画廃棄事件だった。このようなことが自分たちの日々通っているキャンパスの中で起きたということの意味が理解できない。それはアートの意義や意味や価値が理解されていないからか、あるいはまったく無関心だからではないか。それは本郷キャンパスや東京大学への無関心問題に広がったかと思えば、愛着を抱けない理由を探ってみる、そうかと思えば学生同士の交流がないという話に及んだりする。そして巡り巡って「あそび」がないからだ、ということらしい。

「あそび」。国立情報学研究所のCiNiiで「あそび」に関する研究を見てみると、最初の200件くらいは圧倒的に幼児期の発達や教育における「あそび」であり、徐々に、小学校レベルでの「あそび」重要性を考える研究である。ちらほらと空間設計の研究に「あそび空間」というのが出てくる。そうかと思えばネット上を漂ってみると、ある家具メーカーは「あそびがイノベーションをうむ」と提案している。東大本郷キャンパスも、それなりに「あそび」がある。その空間的なあそびを、可視化させて日常的な自分たちの場所にしようと、学生たちが奮闘している。


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このnoteは、東京大学文学部小林真理ゼミが
「わたしと遊び」をテーマに書いたリレーエッセイ最終回です。

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