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遊んでるつもりの僕たちに



いきなりで申し訳ありませんが、

今からこの記事を読もうとする皆さんって「遊び」をしていないわけではありませんよね?


いや、僕たち小林ゼミでは「遊 VIVA!プロジェクト」と銘打って、本郷キャンパスでみんなが遊べるような環境を作ろうとしているわけなんですが、



別に普段から遊んでいますよね??


毎日勉強しかしてない東大生なんて正直出会ったことありません。


みんな、どこかしらで日々の生活の息抜きとして、ゲーム、カラオケやボーリング、飲み会、ショッピングをして、メンタルギリギリのところでストレスを解消しているのではないかと思っています。

一応これも広義の「遊び」には入るのかなと思います。夜遊び、女遊び、なんて言った時には、上のような感じで、お金と時間を使って日々の鬱憤を晴らすことを指しますよね。

だからまあ、わざわざ「本郷キャンパスで遊べ!」なんて言われなくても遊んでるやい、という印象を持っている人が結構いるのではないかと予想しています。

では、いったい我々のやろうとしている「遊び」と、普段僕たちがしている「遊び」は何が違うのか、ということを考えてみましょう。


大人の遊びは


1.パッケージ化されている

ゲームやカラオケ、ボーリング、クラブ、ダーツ。これらは全て企業によって提供されたアミューズメント施設です。

企業が運営している以上、そこには利潤の追求という目標があるので、私たちがお金を払い続けるように設計されています。

どのように設計されているかというと、視覚的聴覚的に刺激的で、かつ私たちができるだけ頭を使わなくていいような仕組みになっています。

たとえば、ソーシャルゲームやパチンコはその極みで、簡単な操作で色々なアクションを自動で起こすことでプレイヤーを刺激し、中毒状態を引き起こすように作られています。

この説明が正確かは疑問ですが、少なくともこれらの「遊び」は企業によって、遊びやすく「パッケージ化」されているとは私は思っていて、そう考えると私たちはゲームを遊んでいるように見えて、実は「遊ばされている」のではないかと疑わずにはいられないんですね。


「忙しい日常のストレスを発散するために遊んでいる」という発言はよく聞きます。「その遊びのために働いているんだ」とかも。

でもそれって一見主体的に遊ぶために、日々のタスクをこなしているというような言い草に聞こえますが、本当にそうなんでしょうかね。


娯楽を提供する企業は、必ずターゲットを設定してその人の生活に入っていくような娯楽を開発します。

つまり、授業後、バイト後の息抜きとして、主体的に選び取っていると思われる「遊び」のほとんどは、企業のマーケティングと宣伝の賜物なのではないかということです。

「どうしてあのゲーム・番組は23時に更新されるんだろう」とか、「どうしてあのクラブ、居酒屋は7時までに入れば安くなるんだろう」とかって考えてみると、僕の言っていることを少しはわかってくれるかなと思います。

まとめると、パッケージ化された娯楽には「遊ばされている」可能性が高いということです。

仕掛けられた「遊び」は創造性がなく、偶然性に乏しく、なんかやっててふと悲しくなるときがないですか?



2.虚しい

虚しい。毎回。心は満たされない。

3.汚い

渋谷も新宿もクサいし汚い。ゲームばかりやっている奴の家もホコリだらけで喘息になりそう。


お分かり頂けましたでしょうか。なかなか客観的な解説でわかりやすかったのではないかと思います。


このような「遊び」とは違った「遊び」を創造するために、僕たち小林ゼミは今回アクションを起こすわけですネ。



どうして遊ぶのか


ゼミに参加していて、どうして本郷キャンパスで遊ばなきゃいけないのかということを自分で考えることがあります。

一応の答えとしては、

大学のキャンパスが、みんなが遊べる最後の砦だから

ということがあると思うんですね。


一歩キャンパスの外に出れば、そこには資本主義のルールが息巻いています。先程言ったアミューズメント施設が、ちょっと歩けば本郷三丁目にも、春日にもひしめいている訳ですよ(東大前はまだ生き残っている...!)。

本郷キャンパスの中だけが、そのような資本主義の倫理に囚わられない場所なのかなと思います。


そしてそれは場所としてもそうですし、そこにいる人間のことも当てはまるんじゃないかなと思います。

東大生も、こんだけテレビで取り上げられて、天才だのなんだの言われることがあっても、結局卒業したら社会の一員として資本主義の世界に入っていくじゃないですか。

決して今の社会が窮屈だと決めつけている訳ではありませんが、働いている人を生で見て、本当に大変そうだなと思う訳です(もちろん大学の教員も同じくらい忙しいと思います)。

だから簡単な娯楽に流れていくのも仕方ないことだと思います。


でもそう考えると、本郷キャンパスにいる3、4年生こそが、本来の意味での「遊び」であるものを創出していける最後の、あるいは当面のところ最後の世代なのではないでしょうか。

そして、そんな可能性を残した彼らが集まれる場所がキャンパスくらいしかないということですね。

当事者である学生自身はなかなかそのことに自覚的ではありませんが、

ほとんどの大人が「大学生のうちに〇〇やっておけばよかった〜」と言っているのを聞くと、

いかに大学という場所が、何をやるにしてもそれが自由に実現可能な数少ない場所なんだろうなと直観します。



現状から「遊び」を考えたい


具体的に何をするかっていうことは、他の記事で詳細に説明していると思うので割愛します。

「遊び」ってなんだろうということを考えるときに、幼少期の経験から考えるのは一つの方法です。

でも、子供の頃の「遊び」が唯一の真理ではないでしょう。

純粋無垢な存在が真理をはじめから知っているという考え方は、なくはないと思いますが、今回はそうではなく、今大人になろうとしている僕らの目線から、日常的に使用している「遊び」という言葉を考えてみました。


そうするとやっぱり、いまみんながやってる「遊び」ってウソくさいよなって話になって、

じゃあホントの「遊び」ってどうすればいいんだっけっていうのを発見したい!

というのが今回僕がプロジェクトを実現させたい理由です。

めんどくさいなこいつって思われるかもしれませんが、批判→対案という考え方は学問の世界でもビジネスの世界でも当たり前の考え方なので、個人的に大切にしていきたいですね。

それに、最近人文学を勉強してハマっているのが、「ない」を繰り返していくことで物事の本当の姿を浮かび上がらせる、という文章の構造で、斜に構える僕の肌にはやっぱりこういう考え方が合います。


もちろん批判するだけでは口だけの奴になってしまいます。

「批判するならお前がやってみろ」という「ほならね理論」を残したのは、syamuさんの数少ない功績の一つなので、ぜひ参考にして、本当の「遊び」を実現させてやろうじゃないかと思います!



以上「遊び」のない文章でした。

私もすでに資本主義の犬に成り下がってしまったのでしょう。

このプロジェクトが終わった暁には、北センチネル島で余生を過ごしたいと思います。ありがとうございました。


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このnoteは、東京大学文学部小林真理ゼミが
「わたしと遊び」をテーマに書いたリレーエッセイ第8回です。

筆者紹介_久毛


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