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【漫画】和泉式部ってどんな人? ー 恋多き女性の隠れた魅力 ー

平安時代中期の歌人・和泉式部。
2人の夫をもち、2人の親王と恋仲になった”情熱的”な女性と評されますが、それだけでない、隠れた魅力がありました。

実を言うと、私は和泉式部がかなり好き。
彼女の人生をたどり『和泉式部日記』を眺めることで、華やかな恋愛遍歴の奥にある人間的な魅力に迫りたいと思います。


為尊親王との出会いで花開く、和泉式部の和歌の才

和泉式部といえば、まずその和歌の才に目がいきます。
『源氏物語』の作者であり、和泉式部の先輩女房であった紫式部も彼女の才能に一目おいていました。『紫式部日記』に

和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。…(中略)…歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたる言どもに、必ずをかしき一ふしの目にとまる詠み添え侍り。…

(和泉式部という人こそ素敵な恋文を書き交わしたようですね。…(中略)…歌は、本当にお見事。和歌の知識や理論、本格派歌人の風格こそ見て取れないものの、口をついて出る言葉言葉の中に必ずはっとする一言が添えられています。…

紫式部『紫式部日記』
現代語訳 山本淳子

と書いたのは有名な話でしょう。

和泉式部はのちに平安女性歌人最多の勅撰歌集入集数を誇る大歌人となるのですが(ちなみに上の日記で紫式部は和泉式部の歌を「知識や理論に欠ける」と批判していますが、実際は和泉式部は『万葉集』にまでさかのぼって古歌を研究しており、紫式部の批評は正しくないと指摘されています)、清少納言や紫式部のように学者の家に生まれたわけではありません。

和泉式部の父・大江雅致おおえのまさむねと母・平保衡女たいらのやすひらのむすめはともに太皇太后昌子内親王に仕えていた、典型的な中級貴族です。親族で歌に関係がある者といえば、和泉式部の父親が、赤染衛門の夫で歌人の大江匡衡と兄弟ではないかと言われているくらいでしょう。

しかし和泉式部には天性の才があったようです。
その才能が本格的に花開くのは最初の恋人・為尊親王と逢瀬を重ねた頃でした。

東宮(のちの三条天皇)の弟という極めて高い身分の親王と、一介の中級貴族にすぎない和泉式部がどのように出会ったのかはわかりません。

和泉式部はそのとき既に橘道貞と結婚していましたが、娘(のちの小式部内侍こしきぶのないし)を産んだあと夫婦仲は冷えていったようで…長保元(999)年、和泉守となった道貞は(これが和泉式部の名前の由来なのですが)、任国に妻を連れては行かず、しばらく後に別の女性を連れていったと言われています。

夫との不仲が元々のものだったのか、和泉式部と為尊親王の関係が原因なのかはわかりません。
また好色者として有名な為尊親王が、和泉式部とどこまで真剣なつきあいをしていたのかも計りかねます。彼女のほうにもこの時期ほかに関係のあった男性がいたようです。

黒髪の乱れもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき

冥きより冥き途にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月

和泉式部の代表作ともいえる2首はいずれもこの頃に詠まれたもの。
長保3(1001)年には「権中納言斉信家屏風ごんちゅうなごんただのぶけびょうぶ」に和歌を召され、(おそらくは為尊親王との噂とともに)歌人としての名声も高まっていったのです。


敦道親王を惹きつけた和泉式部の無常観

ところで和泉式部は、自分より遥かに貴い身分の男性に好かれたことや和歌の才が認められたことを喜んでいたのでしょうか?

彼女の歌を見る限り、とてもそうは思えません。むしろ煩悶が増し、そのことが和歌に深みを与えている気がします。

兄が亡くなったら今度は弟に乗り換える(しかも不倫で、相手は親王!)というのは当時の倫理からも外れており、随分噂になったようです。

しかし和泉式部は、自らの行いに無自覚だったわけではありません。『和泉式部日記』を読むかぎり、彼女は自分の置かれている立場を充分理解した上で、あえて流れに逆らわなかった。流れに逆らわないことを自ら選んだのだと感じます。

自分の評判が下がるのも承知で、なぜ危険な恋に踏み出したのでしょう?
その背景に、深い厭世観えんせいかん・無常観があるように思われます。

和泉式部には、のちに藤原道長に「浮かれ」とからかわれ、和歌で切り返したというエピソードがありますが…実際彼女は敦道親王にどれだけ愛されようと、驕ったり浮かれたりする様子はありませんでした。かといって身分の低さに卑屈になるようなこともなく、ただ等身大の姿で親王の想いに応えていったのです。

これがたとえば『蜻蛉日記』を書いた藤原道綱母ふじわらのみちつなのははだったら、出世欲のようなものを発揮して正妻の座を目指しそう。清少納言や紫式部だったら、見栄やプライドが先にきて相手の気持ちを無下にしてしまいそうです。
でも和泉式部は、たとえば牛車で外に連れ出されても、昼間急に訪ねられても、「恥ずかしい」とは思いつつも反発せず相手に倣うようなところがあります。
それは良妻賢母的な奥ゆかしさからくるものではなく、自分が親王と比べ軽い身であること、それでいて相手が自分のことを想ってくれていることを理解しているからこそのことでしょう。
また召人として宮に仕えることを提案されても、腹を立てたりはしません。親王との身分差から自分が”妻”になれないことは承知の上で、宮仕えを現実的な選択肢の一つとして検討するのです

和泉式部が自分を見る目は驚くほど冷静で、人生や世の中に対してどこか諦めているように思われます。
この厭世観・無常観が為尊親王の死によるものなのか、それ以前から抱きつづけていたものなのかはわかりません。しかしこうした思いが根底にあるからこそ、自分の感情に忠実に生きたいと望むようになったのではないでしょうか。

彼女は自ら進んで悪評を立てるようなことは望んではいないものの、「自分の気持ちに正直に生きた結果世間に誤解されるようなことがあってもしょうがない」というような潔さがあり、何が起きても騒がず慌てずじっと受け止めるような趣があります。
そしてこれこそが敦道親王を惹きつけた和泉式部の魅力だと思うのです。


和泉式部のその後と哀傷歌

そんな彼女は、無常観を抱きながらも出家などはしないまま、粛々と人生を送っていきました。

和泉式部が召人として敦道親王の屋敷に上がってから約4年後、親王が亡くなると、経済的な事情もあったのでしょう、中宮・藤原彰子の元へ出仕します(ここで紫式部と同僚に)。
40歳を前に藤原保昌と再婚し(同時期に最初の夫・橘道貞死亡)、ともに任国に下りますが、和泉式部が48歳くらいの頃に、娘の小式部内侍が亡くなります。小式部内侍は、和泉式部とともに彰子のもとに出仕しており、母親譲りの和歌の才もありました。しかし出産が原因で幼い子を遺してこの世を去ってしまったのです。

多くの死や別れを経験した和泉式部は、その気持ちを率直に歌にのせます。

敦道親王没後の一首

はかなしとまさしく見つる夢の世をおどろかでぬる我は人かは

小式部内侍没後の一首

とどめおきて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり

彼女のあふれるような感情の裏には深い無常観があり、それこそが多くの人の心に響く和泉式部の魅力なのだと思うのです。


【参考】
和泉式部著・近藤みゆき訳注(2003)『和泉式部日記』角川ソフィア文庫
紫式部著・山本淳子編(2008)『ビギナーズクラシックス 日本の古典 紫式部日記』角川ソフィア文庫


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