【超短編】ネクロフィリアと呼べないで
高校生にもなって小学生のときの様な宿題を出されるとは。思わず唸ってしまった。授業が退屈で作ってしまった犬の耳だらけの教科書を読む気もなく閉じ、もう一度黒板を眺める。チョークで記された宿題とは、自作枕草子を書くことだった。前から二番目の窓際、葉桜の匂いがする私の席。頬杖をつくと自分の髪が机にぱらりと抜け落ちた。こいつも春になれれば良かったのに。
春は曙。その文に準えて“春”を書き、そしてそれをクラスで発表するという宿題。きっと桜とか蒲公英とか書いておけば遊ぶ時間も増えるだろうに、それはなんだか癪だった。みんなはなんて書くのだろう、こういうときに友達の一人もいないと少々不便である。さっきの古典は6限目だったらしく、放課後になったばかりの開放感に溢れた空間。高校一年生になったばかりのただでさえ浮かれたこの場所で、桜、蒲公英、チューリップ、花見、新学期、花粉症……ありがちな“春”があちこちから聞こえてきて、それらをノートの隅にメモしていく。自分の回答が他人と丸かぶりになるのを防ぐためだった。
担任が教室に入ってきてホームルームが始まる。それを横目で見ながら、そういえば先生に出会ったのは春だったと思い出す。そして先生と離れたのも。中学三年間、結局一度も担任になってはくれなかったけれども、私は今でもこの教室に彼女を探してしまう。
数学の先生。ショートカットのよく似合う、色白で美しい人だった。身長は低めで声は高くて大きい。外見と反して言葉遣いは荒く、生徒は彼女をとても嫌うかとても好くかの両極端で、私は後者。まるでアイドルの追っかけのように彼女を好きになり、大嫌いだった数学の成績がみるみる伸びた。おかげで賢い高校に入ることができたが、彼女がここにいなければ何の意味もない。
「あんた、友達おらんの?」
初めて先生と二人で話したのは中学一年生の春。初席替えで一番前の席になった日だった。授業前、教卓から身を乗り出して私に話しかけてきた彼女。その頃はまだ彼女のことにも然程興味がなかったから、シャッターを半分ほど下ろした状態で先生を見上げた。
「いない、ですが」
「いつも一人だもんなあ、私と一緒やね」
甘い香りがしている先生。何の香りかは分からなかったが、とても甘い香水が私の鼻腔を擽る。
「先生が?いつも先生たちと一緒に笑ってるじゃないですか」
「あほか。仕事よ、あれは。家やと今のあんたみたいに暗い顔して本読んでるから」
そう言って笑った先生の目は優しくて、なんとなく私は当時読んでいた本を見せた。梶井基次郎の“櫻の樹の下には”。この季節にこれまだ物騒ねと先生はまた笑っていた。確かに笑っていた。
中学二年、三年もずっと数学担当は先生だった。そして私はずっと友達がいないまま、先生だけだった。今となって思えば、先生に友達がいないなんて嘘だったのかもしれない。ただ私を安心させたくて言っただけだったかもしれない。席が一番前じゃなくても私に話しかけてくれていたのだって、独りぼっちの私を気にかけるよう誰かから言われたからかもしれない。それでも私は先生が好きだった。彼女はずっと私に優しかったから。
私は一度だけ先生に嘘をついた。まだ先生が来る前の教室で扉の前を塞ぐように立っている女の子達を、私は突き飛ばした。どいてほしいと言う勇気がなく少し押したつもりが強くなりすぎて、女の子達は背中から床に転んでしまう。
「いきなり何?痛いんだけど、ねえ」
一番派手に転んだ子は背が高かった。起き上がってから私のほうに手を伸ばす。きっと私を突き飛ばそうとしたのだと思う。次の瞬間、私を庇うように先生が駆け寄って来て女の子達に叫んだ。
「内申点が惜しかったら今すぐ席に着きなさい!」
不器用。ただでさえ声の大きい彼女の、聞いた中で一番大きい声。選んだ台詞があれとは、なんともずるい“教師”だ。ぱらぱら足音が遠のいて先生は言う。何かトラブルがあったの?と。
「……何もしてないし、されてません」
嘘をついた。それを知らないまま彼女は私を抱きしめる。
「“何かされる”ところだったじゃん。大丈夫?」
先生は両方から話を聞かなかった。ダメな先生。でも、それまで独りぼっちで生きてきた私にはそれがとても嬉しいことのように思えた。その頃から先生の甘い香水に薄くメンズの香水が混ざり始めたのを私は決して知らなかった。先生の言葉遣いが少し柔らかになってしまったことも、絶対に知らなかった。
中学最後の数学の授業。先生は何も持たず教室にやって来た。
「受験前のあなた達に言うのは酷だけど、世の中数学より大事なことがあります。最後はその話。入試の過去問じゃなくてごめんね」
彼女は細い指でチョークを拾い上げて“桜”と一文字黒板に書いた。あまりに季節外れだ。暖房の効いた教室で、誰かがカイロを振る音がしていた。
「桜の樹の下には死体が埋まっているという話があります。あなた達はそんな桜のように生きてゆきなさい」
息が止まりそうになる。先生が一瞬私と目を合わせて笑った様な気もして、彼女の名前を呼ぼうとして、名前を思い付かなかった。
「変化というのは死と同じです。今までの自分を殺してあなた達は成長している。そんな死体の上に咲きなさい」
繰り返される死体という言葉に教室が淀んでいく。あのとき彼女をまだ好きでいたのはきっと私だけだった。あんなに綺麗な瞳で皆の前に立っていたのだから、先生にはやっぱり友達がいたのだと思う。先生も嘘つきならよかったと何度願っていただろうか。
「桜のようにと言いましたが、そもそもそこまで美しく咲けない人もいるかもしれません。すぐ枯れる人、咲くにまで至らない人も出てくるでしょう。有名な“置かれた場所で咲きなさい”という言葉の通りなら。しかし……」
彼女は小さく息を吸った。
先生、そんな話し方じゃなかった。変わっちゃった。もう私の好きな先生は死体なんだ。私が先生の隣にいられたなら、その樹の下を掘ってみせたのに。
なんて烏滸がましいことを思っては泣きそうになっていた。先生と違って長い自分の髪が酷く憎くなる。
「しかしあなたたちはみな花の種です。咲かないはずはありません。咲けぬのならそれは環境が悪いのです。みなさんは置かれた場所から動くことができます。自分の居場所を探し求めることができます。そうして沢山の自分を殺しながら生きてゆきなさい。死体の上に咲きなさい」
言い切って顔を上げた先生は眩しかった。私と同じじゃなかった。いつの間にその左薬指に指輪があったことに、そのとき初めて気付いてしまったのだ。
「じゃあ、次、前に出て発表して頂戴」
高校の数学教師はジャージの男性だし、この国語教師は冷たい目のおばさんだ。私も彼らの名前を覚えていないくせに、教師なんだから名前くらい覚えて呼べよなんて心の中でひっそりと毒づく。
「えー、春は」
春は先生。綺麗で嘘つきな先生。もう死体になった先生。私だけに笑ってくれた先生。先生の香水が金木犀の香りだったの、実は知っていた。誰にも言わず黙っていた。春は金木犀。春は嘘。春は秘密。春は先生。彼女は柔らかく残酷で変わりゆく、そんな人だった。
「春は、桜」
先生、私には未だ友達がいません。最後の最後で怖くなってしまった。そもそも春を語る資格など私にはないのだと思う。私にとって春は先生。まだ春は私を迎えに来ていないのだから。
宜しければ。