アップサイクル・サーキュラ@shigehiko saito

『未来はすべて次なる世代のためにある』Save the small planet &a…

アップサイクル・サーキュラ@shigehiko saito

『未来はすべて次なる世代のためにある』Save the small planet & children SDGs🌎に沿った知性ある行動、紡ぐ伝統/持続可能な社会の実現に向け、プラットフォーム作りを推進🌈 サスティナビリティ/サーキュラーエコノミーモデレータ

マガジン

  • 「私の経歴書」長い自己紹介

    挫折や試練の連続だったと思う会社生活。 人はこんな時に挫折して、それをどうしてを乗り越えていくのだろうか。 振り返ってみれば、人との出会いで救われることがあるのかもしれない。 そうして積み重ねた経験や知識を活かしていくために。

最近の記事

なんとなく続く逆境とあふれる機会

そういえば、先日、経済同友会の桜田代表幹事が菅首相から「7割テレワーク」の協力を要請され、「なんとなく出社するという管理職」。「なんとなく出社をするというトップが、やはり増えてきてるなって感じがする。どうして会社に来るのって言ったときに、『それは会社があるから』だ」と答えたといいます。 これではいつまでも感染が抑制されそうにない。この緊張感のなさは何のなのだろう。今は危機ではないのだろうか。 危機的な温暖化国連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)6次評価報告書の第

    • 「私の履歴書 15」むかしの仕事仲間を迎え入れる。積み重ねた人のつながりが助けになるとき

      海外赴任した直後は何かとバタバタとしていた。現地生活に慣れる前に、次々と難問が降りかかってくるように感じていた。増える続ける生産数に新モデル、中国深圳の新拠点立ち上げなど仕事も増え、現地スタッフを増やし、効率的に動けるようになっていた。 赴任当時に比べれば、だいぶ落ち着きていた。 一緒に仕事をしたことで、Div.Managerともすっかり仲良くなり、帰りがけによく飲みに行くようにもなった。 オフィスが街中に移ったとことの影響があるのかもしれない。 それまでのオフィスは

      • 「私の経歴書 14」自分の仕事のほかに、他者の仕事を手伝ってみると、よかったと思うことがたくさん増える

        シンガポールのオフィスもインド人、マレー人、中華系、日本人と多様性があったが、購買部門は中華系と日本人の構成だった。1/3くらいのメンバーとは仕事のつながりもできてきた。よそよそしく感じたオフィスの雰囲気にも少しづつだが、馴染んできたのかもしれない。 Div.Managerの発案で始まった他事業の仕事も、まずはひとつ受注が確定した。シンガポールの取引先を紹介、そこで客先事業部のカスタム部品を作ることになる。今度は日本、フィリピン、シンガポールで協力して進めることになる。いつ

        • 「私の経歴書 13」強要もせずに、でき上った多様性あるチームの強さを感じるとき

          シンガポールに異動してから、マレーシアの工場にひと月に一度定期的に訪問するようになった。シンガポールの購買部門の日本人Managerがはじめたことが、それに同行するようになった。はじめはシンガポールに駐在する日本人2名で工場を訪問、工場側の日本人との情報交換を行っていたが、回を重ねるごとに、現地スタッフも参加するようになり、重要な定例ミーティングになった。 マレーシアの駐在員事務所も人数が増えていた。赴任直後にあったリストラでマレーシアにあった自社工場は閉鎖になり、そこにい

        なんとなく続く逆境とあふれる機会

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        • 「私の経歴書」長い自己紹介
          15本

        記事

          「私の経歴書 12」現地スタッフの情熱に刺激されていたという気づき

          事業環境の変化によって、仕事内容は変わる。入社以来仕事内容もいくぶん変わったが、気づけば、それ以上にオフィスの場所が変わっている。川崎の工場から始まり、これまでに6回もオフィスの場所が変わっていた。シンガポールに来ても、その例外ではないらしい。 1年も経たないうちにオフィスの場所が変わることになった。サンテック国際会議展示場にあったオフィスが商業地オーチャード通りのニーアンシティに変わることになった。 間借りという形で異動してきたが、新しいオフィスでは、オフィスの中心、Div

          「私の経歴書 12」現地スタッフの情熱に刺激されていたという気づき

          「私の経歴書 11」出会いが感情を鼓舞するとき

          課長試験は何とか通ったが、その試験のさなかにも、気にかけていなければならない仕事がいくつかあった。そのひとつが、中国での新機種生産だった。 中国深圳では、もう、その新機種の生産が始まっていた。新機種に使われる部品の一部を香港経由でマレーシアのオフィスが手配、マレーシア、シンガポールで集め発送していた。マレーシアの生産を続けながら、追加になった仕事だ。 中国で部品生産ができるようになれば、少しはマレーシアのメンバーの負荷を落とすこともできるし、コストセーブにもつながる。課長試験

          「私の経歴書 11」出会いが感情を鼓舞するとき

          「私の経歴書 10」緊張し過ぎたプレゼン、だめだと思って学べることもある

          シンガポールに異動してよかったと思えることがある。今まで全く関係のなかった上長が課長試験のことを気にかけてくれた。何か相談したり、報告することもなかったのだが、その上長の方から、課長試験に向けて日本で開催される研修に積極的に参加したほうが良いとか、日本に行く場合は遠慮なくビジネスクラスを使っていくように声をかけてくれた。気持ちが落ちつかず、そうした声掛けをその時は聞き流していた。 それでも無意識下ではうれしかったのだろう。それが出会いということなのかもしれない。その後、その上

          「私の経歴書 10」緊張し過ぎたプレゼン、だめだと思って学べることもある

          「私の経歴書 9」始まった課長試験と現地スタッフとの二人三脚。チームでの仕事

          新規に採用することになったスタッフと雇用契約を結ぶことになった。その中の「Job Description」で、仕事内容を明確にして契約の一部となる。面接に協力してくれた現地スタッフに相談すると、一文加えたほうが良いという。列挙した仕事内容の他にも上長から言われたことに従い仕事するような内容を追加した。 その後もスタッフを増やしていくことになるが、新規に採用する人たちは必ずこの一文について質問してくる。それほど重い内容であったようだ。 「郷に入っては郷に従え」という言葉がある

          「私の経歴書 9」始まった課長試験と現地スタッフとの二人三脚。チームでの仕事

          「私の経歴書 8」近づく課長試験、採用面接、忍びよる中国の影

          勤めていた電機会社はフランスの大手電機メーカとアライアンスを結んでいた。その関係もあって、新機種をその会社の中国深圳工場で生産することになった。理由は特許回避があったようだ。立上げ当初は部品の一部をマレーシアから送ることになった。輸送費もかさむことより、ゆくゆくは中国現地で調達するとの方針であった。日本から託された宿題、「安定的な部品供給体制」にはどうやらそのことも含まれているようだった。 シンガポールに異動すると、現地スタッフを雇い、自由に動ける身になれと再三言われるよう

          「私の経歴書 8」近づく課長試験、採用面接、忍びよる中国の影

          「私の経歴書 7」思い出される苦い過去、シンガポールは新天地になるのだろうか

          シンガポールに到着した。ペナンから1時間ちょっとのフライトだった。また、しばらくホテル暮らし。とはいえ、今度は引越しの船便が到着するまで1週間足らずの時間だ。オフィス近くのホテルを予約してある。ホテルまでタクシーで移動した。ペナンと違って都会だ。 * 初めてのシンガポールは、入社して3年目の冬だったであろうか。 自分の不注意であったが、運悪くシンガポール出張前に交通事故を起こした。止まっている車にぶつかる自爆事故で怪我をした。前歯を2本折り、舌を縫った。 初めてのシンガポ

          「私の経歴書 7」思い出される苦い過去、シンガポールは新天地になるのだろうか

          「私の経歴書 6」マレーシアでの宿題と課長試験という重石を携え、失望の地シンガポールへ

          ペナンで最初で最後の夏休みは、ランカウイ島に行ってみた。マラッカ海峡とインド洋がつながる所に位置する島。ペナンから飛行機で30分くらいだ。海の近くではなくて、島北部のジャングルの中のリゾートでゆっくり過ごした。いい骨休めになった。 夏休みが終わると、シンガポールへの引っ越しと課長試験の準備を始めなければならなかった。ペナンに1軒あった日本の書籍を扱うお店で筆記試験用の参考書を買った。シンガポールに異動して直ぐ筆記試験になる予定だ。 日本からもやたら参考書とか資料が送られて

          「私の経歴書 6」マレーシアでの宿題と課長試験という重石を携え、失望の地シンガポールへ

          外出自粛 引きこもろう 社会的距離を保とう Stay At Home and Stay Safe

          昨日3月27日の小池東京都知事の記者会見、質疑応答で、知事は「ステイ・アット・ホーム」と呼びかけた。 今、世界でのキーワード、共通の言葉は、ステイ・アット・ホームと、おうちにいなさいということで、それぞれの、例えばインドにしてもフランスにしても、それからパリ、ニューヨークにしても、ステイ・アット・ホーム、家にいろということで、皆様それをじっと、公共の健康のために、皆様協力しておられるというのが現状でございます。 この土日についても、それぞれご自宅で、色々な過ごし方を工夫して

          外出自粛 引きこもろう 社会的距離を保とう Stay At Home and Stay Safe

          「私たちの経歴書 5」ペナン暮らしはつかの間。また内示、また異動

          ペナンでの生活が始まった。工場までは朝の渋滞を考えると1時間半プラスはかかる。8時始まりだから、毎朝6時過ぎには家を出る。昼食時間が14時前後だから朝ごはんは食べておきたい。とはいっても朝からそんなに食べることもできないからトースト1枚という感じだ。 家を出るとコーランが聞こえる。朝のお祈りの時間なんだろうか。ジョージタウンの街を抜け、ペナンブリッジを渡る頃が日の出の時間だ。だいたい7時ころだろうか。現地のFMを聞き、中国の歌を聞くことがあたりまえになった。 工場に到着する

          「私たちの経歴書 5」ペナン暮らしはつかの間。また内示、また異動

          「私の経歴書 4」海外赴任辞令は現地で... 遠のく日本

          (前回まで) 仕事に目覚めたのはIE(=Industrial Engineering)がきっかけだった。その知識を活かそうとした海外での仕事では、少しばかりの挫折を味わった。人との出会いで充実した日々を取り戻すが、突然、その仕事を奪われた。新しい仕事場は国内。新たな仲間たちと仕事が進めるが、リストラや別れを経験する。入社当時の先輩と再会、一緒に仕事することで、また仕事への情熱も復活、やりがいが感じるようになった。そんなとき、マレーシア赴任を言い渡された。寸断した生産ラインの

          「私の経歴書 4」海外赴任辞令は現地で... 遠のく日本

          ロックダウン、「首都封鎖」に言及する小池東京都知事の危機感

          東京オリンピックの延期やイギリスの不要不急の外出禁止がTwitterでのトレンドに上がっているようだけれど、昨日の小池東京都知事の記者会見「新型コロナウイルス感染症に対する対応方針について」では、ロックダウン、「首都封鎖」に言及があった。 引き続きご不便おかけいたしますけれども、何度も申し上げますが、感染者の爆発的な増加、いわゆるオーバーシュートを回避して、命を守るためのご協力、何とぞよろしくお願いを申し上げたいと思います。・・・ これまで都民、国民の皆様方には、手洗いの実

          ロックダウン、「首都封鎖」に言及する小池東京都知事の危機感

          「私の経歴書 3」波乱ではじまるマレーシア暮らし 海外赴任辞令がでない…

          (前回まで) IE(=Industrial Engineering)の知識を見つけ、その実践の場として海外での仕事に携わり、少しばかりの挫折を味わいながらも充実した日々を送っていたときに、仕事場を奪られた。やりきれない思いを持ちながらも、日本で、新たな仲間たちとの仕事が始まった。リストラ、仲間との別れの経験もあったが、先輩と再会、一緒に仕事することで、仕事のコアが固まり、やりがいが生まれた。そんなとき、マレーシア赴任を言い渡される。寸断した生産ラインを復旧するための問題解決

          「私の経歴書 3」波乱ではじまるマレーシア暮らし 海外赴任辞令がでない…