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「私の経歴書 3」波乱ではじまるマレーシア暮らし 海外赴任辞令がでない…

(前回まで)
IE(=Industrial  Engineering)の知識を見つけ、その実践の場として海外での仕事に携わり、少しばかりの挫折を味わいながらも充実した日々を送っていたときに、仕事場を奪られた。やりきれない思いを持ちながらも、日本で、新たな仲間たちとの仕事が始まった。リストラ、仲間との別れの経験もあったが、先輩と再会、一緒に仕事することで、仕事のコアが固まり、やりがいが生まれた。そんなとき、マレーシア赴任を言い渡される。寸断した生産ラインを復旧するための問題解決を託されての赴任だった。着任早々現地スタッフとぶつかる。試練の予感がするマレーシアでの生活が始まった。

現地スタッフとの衝突、届かぬ正式辞令、まさかの長期のホテル暮らし

入社して間もないころ、職場が一気にグローバル化という言葉でざわめき始めた。イギリスで生産を始めるという。その準備を始める先輩諸氏の活躍を見ながら、目の前の仕事を黙々とこなしていたのは入社2年目の頃だったであろうか。自分もいつか海外駐在したいなんて思ったものだった。
毎年ある「目標管理」では将来の目標に海外駐在と書いて提出するようになった。

そんなことの影響もあってのことだかはわかなかったが、マレーシア赴任の内示を受けたときには、うれしくもあったが正直不安もあった。
赴任理由が、寸断する生産ラインの立直しを求められていることもあったし、マレーシアペナンには一度だけ行ったことはあったが、よく知らない土地ということもあったのかもしれない。

問題が発生しているのだから、兎に角早く赴任しろと言われ、バタバタと準備をしてペナンに旅立った。少しばかりの着替えとゴルフバックだけ、先に航空便で送り、身一つ現地に向かった。追っかけ正式辞令は送ると言われ、内示状態、出張の身で現地に到着した。

早速、現地スタッフとぶつかる。着任早々問題なんて解決できるはずもない。矢継ぎ早に繰り出されるリクエストに辟辟しながらも、問題をひとつひとつ解決していくしかない。問題のあった取引先の生産負荷を軽くしながら、遠地ではあったがシンガポールからの供給を増やすことで急場をしのぎ、安定的な供給体制を作る準備を始めた。

そんな頃、日本ではリストラが始まっていた。大規模な事業再編だった。閉鎖になる事業、他社と合弁したり、子会社化になる事業様々だった。
パソコン市場が成長期にあった幸運もあって、その他パソコン周辺機器事業と一緒になって事業本部に格上げになった。
が、ここで問題が生じた。海外赴任の辞令が遅れるという。事業部が変更になる諸々からの理由のようだ。現地での就業ビザを取れない…
ということは、家を借りることもできないし、現地での生活が準備ができない。しばらくホテル暮らしが続くことになる.....

工場があったのは、マレーシア ペナン州のとなりケダ州の小さな町。ペナン島から延びる高速道路。車を走らせ州境を越えると水田地帯になる。ところどころにヤシの木が見え、そのまわりには民家が点在する。1時間ちょっと走って到着するSg.Petaniという町が赴任地だ。
その町はずれのホテルが当面の宿になった。他の駐在員はみなペナン島暮らし。日中は仕事があるからいいものの、夜になると淋しくなる。セブンイレブンで買い入れたビールを飲み、持ってきた本を読む。一巡して再読。その繰り返し。長くなりそうなホテル生活、落ち着かない日々が続く。
(つづく)





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