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本当に欲しいものは渦潮の中にはない

 これまで手に入れたものの中で、一番うれしかったものは何ですか? 一番思い出に残っているものは何ですか? 自分の世界が変わるほどの出会いになったものは、ありますか?


 溢れかえるモノの渦に飲み込まれそうなのが、現代の日本だと思う。飲み込もうとしているのは、モノではなくて、自分自身の物欲かもしれない。どちらにせよ、モノも情報も人の感情すらも、鳴門の渦潮のようにぐるぐるぐるぐる回りうねり、目まぐるしく変化をしつづけているのが、今という時代だと思う。

 うねり渦を巻くスピードは速く、勢いも強い。気をつけていないと、周囲にいるだけであっという間に飲み込まれ、深海へと連れ去られてしまいそうになる。

 飲み込まれたせいで湧き上がる物欲は、きっと本来の自分自身から欲しているものではない。そのため、モノを手に入れたとしても、うれしさや充足感はいっときしか感じられず、「ああ、無駄遣いをしてしまった」とクレジットカードの明細を見ながらため息をつくことになるのだろう。

 渦に飲み込まれず、心の底から欲しているモノに出会い手に入れられることは、現代ではありがたく恵まれていることなのかもしれない。だから、わたしはきっと幸せものなのだろう。


*  *  *


 冒頭の問いを投げかけられたとき、わたしの脳裏に浮かぶのは、一台の古ぼけたワープロだ。発売当初のデスクトップパソコンのような、いかつい形をした、大きなワープロだ。画面は黒っぽく、文字は白抜きのように表示され、カラーなんてない、モノクロームの世界がただ広がっていた、そんなワープロだ。

 手に入れたのは、小学校二年生頃のこと。手渡したのは、父だ。
 わたしの父は、仕事柄、報告書や本の原稿を書くことがある。父は今でいうノートパソコンのようなワープロに新調し、お古のワープロをわたしにくれた。わたしは当時から物語を書くことが好きで、暇さえあれば文章を書き、絵を描いているような子どもだったため、きっと何かを書くだろうと父は思ったのだろう。

 ひらがな入力に設定してくれたため、当時のわたしでも何なく使いこなすことができたそのワープロは、わたしの宝箱だった。今、わたしが使っているキーボードは、もともとのものが壊れたために買い替えたものなのだけれど、打った感触が昔のワープロのように感じて、どこか落ち着く。……そう感じられるくらい、当時のわたしはワープロをしょっちゅう打っていたのだろう。

 自分が書いたものが、活字になる。子どもの書いた頼りない文字ではなく、しっかりと整った活字になる。そのことが、ひどくうれしかった。残念ながら父はインクを買い与えてくれず、与えられた感熱紙に印刷するばかりだったのだけれど。(だから、きっと当時のものは残っていない。それとも、実家に変色した状態で保管されているのだろうか)

 書いていたのは拙い物語ばかりだったのに、活字になるだけで立派なものに思えて、ホチキスで留めては冊子状にまとめていた。
 ワープロのキーボードを小さな手で叩いていたあのとき、ワープロの中に広がっていたのは、わたしの世界だった。

 もし画面の中に入り込めたら、出てきた先で出会えるのは、今のわたしかもしれない。バカみたいだけれど、本当にそう思うことがある。あの頃と今のわたしとは、確実に地続きなのだ。


*  *  *


 不思議なことに、あのワープロをいつまで使っていたのかどうか、わたしは明確に憶えていない。最後にはとうとう完全に壊れてしまったのかどうかすら、記憶に残っていない。

 実際のことであったのに、どこか幼いわたしの夢の中の出来事であったようにすら思える。そうして、ワープロを使っていた頃のわたしを思い出すたび、わたしは幼いわたしをそばで見守っているような感覚になる。きゅうと胸が詰まる。夕焼けの最後のひとかけらが沈む際、一際強く放つ光を見たときに感じるような、焦がれる思いを抱く。
 これが好きだという気持ちであることを、当時のわたしは知らなかった。

 親からしたら、ごみ同然のワープロだ。それでも、わたしにとっては、唯一無二の贈りものだった。今、新しいパソコンを手に入れても、あのときのようには喜べないだろう。そのことが、ちょっぴり悲しい。

 これから、わたしはどれだけこうしたものに出会えるだろうか。薄くなり、色鮮やかになり、文字を打つだけにとどまらず、文字通り広い世界を繰り広げてくれるパソコンの画面を前にしながら、そんなことを思う。
 渦に飲み込まれずに、自分の心のどこかできらめく「好き」を、今のわたしは掬い上げられるだろうか。

 ちなみに、子どもの頃から鳴門の渦潮を見るたび、わたしは自分が飲み込まれ吸い込まれていく姿を空想してしまう。そんなわたしの頭は、今日も物欲が渦巻いている。

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