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「モノ」 時間泥棒を追って(4)

今回は、本当は主題的にもっととっておこうと思っていた「モノ」についてです。昨今では、まるで時の速度が早くなったのではないかと感じる程に、「物」も「時」も、移り変わっていくような気がしています。

ここで言いたいのは、とても単純な話だ。それは結論「物は時間を使う」ということ。人間視点から言えば、擬人法的な表現で「物が時間を奪う」または「物は時間を喰う」のだ。


とても私的な話ではあるが、ひとつの仮説をここで発言しようと思う。
「時=光」そして「物体=光の残像(または、光の止まっている点の集結)」と仮説すると、「物体」とは「時間」と言える。

もしもこの宇宙でもいいし、ある空間の内部の広さに対して「質量」が限定として決まっている次元に我々が存在しているとすれば、例えば10立法メートルの空間に、私が住んでいるとしよう。

その空間の中に、ただ私だけが存在しているとすれば、私中心の時間軸だけで、私だけが時間を食べて、生活していけることだろう。


しかし我々、人間には困った性質が二つある。それは「退屈」の恐怖心。そして、もうひとつは大いなる「想像力」。そう、人間とは、困ったものなのだ。その空間に私は、すぐに飽きるだろう。そして私は、すぐに想像するだろう。

そして、宇宙であれば惑星を置き星々を散りばめ、いずれそこに自分と似たような自分以外の他人をそれぞれに配置し、いつかその者達と巡り逢うことを望むだろう。

現実的な私生活の話で言えば、ベッドを置き、棚を設置し、本を積み上げ、テーブルを置き、椅子を選び、そして、そこから、いろいろな物との共同生活を始めるに違いない。


この空間を日本に置き換えれば、戦後、高度成長期に日本という空間は、急激に「モノ」との同居を早めて行った時代だったと感じる。新商品を購入しては、古い物を簡単に捨てていた消費時代でもある。

人は、空いた隙間になにを埋めていたのだろう。「豊か」と呼ばれた時代なのかもしれないが、消費していたのは果たして「物」だったのだろうか。
「物が時間を喰らう」

人生の空いた時間を埋めるように「モノ」を消費し、部屋を物質で埋めて心を埋めるかのように「価値」を所有したような気になっていた。

しかし前述の仮説で言うのならば「物は時間を奪う」のだ。物に溢れた部屋、街、社会、人生、世界は、たちまち「余裕」を失って行った。


豊かさは「物」では埋められなかったのではないだろうか。なぜならそれは生活が物質で余裕を得るに比例して、人生や心は「猶予」を失っていったからかもしれない。

物質的な豊かさの代償として消費していたのはなんだったのだろうか。まるで物を使い捨てるかのように、結果、消費していたのは「時間」と言えるのではないか。

時間泥棒は誰だ?

20091114 1:11



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