アメリカか日本かではなく、都会か田舎かという話
留学をしていてよく聞く他の日本人からの不満として「日本は不自由だ・個性が発揮できない」というものがある。
これについて幾ばくか疑問を抱き考えた末に出した結論は「結局のところ都会か田舎かの違い」ではないかというものだ。
以下、よく話題に上がる項目ごとにまとめてみた。
①服装
度々話題に上がることとして海外ではみんな服装が個性的だというものがある。これには一度は留学をしたことがある人なら決してその通りであるとは思わないはずだ。もちろんおしゃれな人はたくさんいる。僕が留学をしていたニューヨークでも飛び抜けてセンスのある人をたくさんみてきた。しかし否応にしてその人たちは「洋服に興味がある、もしくはおしゃれが趣味」または「その道のプロの人」である。これは結局のところ日本と変わらないのではないか。そもそも一つの国籍という共通点だけを持った人々が”全員”おしゃれであるというのは無茶な話である。おしゃれが好きな人は服飾学校やセレクトショップの多い都会に集まる”傾向”がある。そしてかのような都会の人々は雑誌やインターネットなどのメディアに露出しやすい。それは日本も他の外国もそう変わらないことではないだろうか。
またその服装の”個性”を発揮しやすいか否かについてもほぼどんぐりの背比べと言ってもいいだろう。わざわざ人の外見にケチをつけてくる人はいつの時代も、世界中どこに行っても結局は存在する。そしてそのような人々は特に閉ざされた空間に出没する傾向があるというだけなのではないか。僕の知り合いのゴスロリが好きなユタ州出身のアメリカ人の女の子は地元の教会の牧師さんから「もっと普通の外見になりなさい」と顔を合わせるごとに言われていたらしい。また僕が仲良くしていたパンク、エモ系界隈の子達のほぼ全員がハイスクールではいじめにあっていた。結局のところ人間という存在は生まれた場所に関わらず、自分とは異なっているものを排除しようとする性質があるというだけなのではないか。
②仕事
次は「アメリカではみんなが自由に働ける」というもの。こう言われるのにはそれ相応のふさわしい理由があると思う。シリコンバレーではたくさんの若い優秀な人々が日々自らの心の赴くままに新しいイノベーションを生み出している。けれど大事なことは彼らは”特殊な”アメリカ人だということだ。全てのアメリカ人がそのような働き方をできるわけではなくただ彼らに確固たる実力があるからだ。その状況は日本でもほぼ同じことであろう。個人としてしっかりと実力を持った人は東京でそれなりに自由に働いている。日本は身分制度もなく、収入による国内の移動制限もなされていないため働き方の自由はしっかりとある。確かにまた郊外のアメリカ人の多くはある程度の自由の下で働いている。ただその”自由”という言葉には従業員を雇用者のさじ加減で解雇できる”自由”も含まれている。思うところこの自由はイコール気楽さではないのではなかろうか。アメリカではおおよそ雇用者が従業員を”気に入らない”という理由で解雇できるため日本よりも”ゴマすり”の文化がひどい。またアメリカには会社の飲み会がないから早く帰れるというのは事実だが、その代わりとしてある週末に上司邸宅でのホームパーティーがある。しかも家族全員参加でだ。「小さい頃、父さんの会社のホームパーティーに呼ばれて、そこで父さんが他の大人にヘコヘコしていたのを見るのが苦痛だった」というようなことを大学の友人がよく言っていたのを覚えている。(そしてだいたい会社の上司の子供が野球のリトルリーグで威張ったりしていて、子供達の間でもヒエラルキーが生まれる)またアメリカはかなりの人気者社会であり、地元の高校のアメフト部でクオーターバックだったいじめっ子がそのまま地元の企業に気に入られてそれなりに良いポジションを与えられる。そして同じ高校出身の数学が得意でスターウォーズが好きな気の弱い同僚をいびり倒す(実話)ということが割とそれぞれ異なった田舎で起きている。村社会もへったくれもない。ある意味でジョックスやナードが出てくるアメリカ映画はアメリカ社会を的確に映しているかもしれない。何にせよNerd(隠キャ)には手厳しい社会だ。
③自己主張
アメリカではみんな言いたいことが言える。これはある意味では正しいと思う。しかしその意見全てが尊重されるという訳ではない。ただ、言いたいことを力強く言えない人は社会から淘汰されていくだけだ。コミニケーション能力というものが日本以上に直接キャリアに影響してくる。僕の友人にマイケルというボストン大学出身の友達がいる。僕と彼はガンダムのアーケードゲームを通して知り合った。彼は驚異的な器用さの持ち主で、あり彼のガナーザクウォーリアを倒せることのできたアメリカ人を僕はまだ見たことがない。僕と彼はよくタッグを組みついに100連勝を達成した。しかし彼はその器用さとボストン大学卒業という経歴を持ちながらビルの清掃を行っている。なぜ彼がそのようなブルーカラーの職に着いているのかというと彼が吃音を持っているということらしい。ボストンから地元に戻り職を得ようとした彼は次々とインタビューに落ちていった。その全ての理由は彼の吃音のある話し方が”オタクっぽい”からだということだ。「アメリカでは言いたいことが言える」その通りだ。ただそれはコミニケーションを取ることが得意な人が目立っているだけに過ぎない。日本と同様に人付き合いを得意としない人だっている。ただ彼らは隅に追いやられているだけなのだ。
結局のところ人間の性質というものは「国籍」によって著しく左右されるものではないのではないかと思う。都会に住んでいて様々な価値観や個性を持った人が周りにいれば自分もある程度の心の自由を感じ取ることができるし、共同生活が求められる田舎にいれば順応するか淘汰されるかのどちらかだ。日本の地方で息苦しさを感じている少年と時を同じくしてネブラスカ州の少年も似たような悩みに頭を悩ませていることだろう。どうやら明治頃からも日本の英文学者や外国への使節団希望者には地方出身の者が多かったと新戸部稲造も言っている。江戸っ子たちはその都会暮らしで好奇心を満たすことができたのかもしれない。
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