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山下紘加『クロス』/象徴としてのストッキング

第167回芥川賞候補作『あくてえ』。
小説家志望の19歳「あたし」。
同居している憎たらしい90歳のばばあ。
ばばあに何も言わない母親。
別れて浮気相手のところにいってしまった父親。
鬱屈とした日々ばかりが続き、吐きたくもない「あくてえ(甲州弁で悪態)」を吐き続ける「あたし」。
読み終えても何も解決しない物語にやるせなさを感じつつも、どこか魅力的な物語に惹きつけられた。

小説を読み終えて奥付のさらに後のページを捲ると著者のこれまでの作品が掲載されていた。
その中の『クロス』という小説の紹介にはこう書いてあった。

「女装しているきみが好き」と彼は言う。
それは女?男?それとも、私?
異才の20代文藝賞作家が描く異性装者(クロスドレッサー)の物語

女装に興味がないわけではないが、女装をするわけではない。
女装をするわけではないが、ほぼ毎日ストッキングを穿く。
このような私にとって避けて通ることができないテーマの小説だと思ったのだ。

私はすぐさまこの小説を手にして、早速読み始める。
読み進めていくうちにテーマを物語る象徴として度々、ストッキングに関する描写が現れる。

主人公の男性が初めて穿いた時のこと。
穿いた時の感覚。
穿いている時の感覚。
普段の服の下に穿いている後ろめたさと喜び。
穿いた時の安心感。
穿くとシャキッとする感覚。

どれもこれも自分自身が体験してきた感覚ばかり。
なぜこんなにもこの作者はこの感覚がわかるのだろうか。
驚きととともにこの本に出会えた喜びが湧き上がる。

しかし、この小説を読んでストッキングに対する感覚を共有できた喜びだけではこの小説との出会いが運命的とまでには至らない。
では運命的な出会いとまで感じた理由は何か。
それはこの一文が全てを現している。

「自由を穿く」

山下紘加『クロス』(2022)河出書房新社、P71

主人公がふと電車の中で目にした広告のコピー。
そのコピーに初めて穿いたストッキングを重ね合わせる。
ストッキングは女性が穿くもの。
男性が穿くものではない。
でも男性である私が穿いた。
穿いてみるととても滑らかで温もりがあり安心できる。
ストッキングを穿くことで自由を手に入れられるかもしれない。

私も子供の頃からストッキングを穿いてきた。
初めて穿いた時の衝撃は今でも忘れられない。
こんなに素晴らしいものがあったのか。
それはいまだに思い続けている。

でもこんなに素晴らしくて大好きなものを堂々と穿くことができない。
大好きだと言うこともできない。
こんなに素敵なストッキングがたくさんあって、それを知っているのに、誰にも伝えることができない。
そんなもどかしさをずっと持ち続けてきた。

「自由を穿く」という言葉を目にした時、私も自由になれるのではないかと思えた。
ストッキングを穿くことは自由なのだ。
世間的に認められることはないかもしれない。
でも好きなものを身につけて幸せを感じることは誰にも止められない。
自由の象徴としてのストッキング。
ストッキングに素晴らしいイメージを与えてくれたことが、この小説との出会いを私が運命的だと感じた理由なのだと思う。

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